お知らせ内容
1月19日 メッセージより
2025年1月19日 メッセージ「私と一緒に来てください」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 4章18-25節
今回の聖書のお話は、イエス様が最初の弟子たちとして、4人の漁師を選ばれたお話でした。イエス様に声をかけられた4人は、潔く「網を捨て」(20)、「舟と父を残して」(22)イエス様に従ったと、ここではまるで優等生のように描かれています。しかし、この後に記されている弟子たちの姿は決して格好いいものではなく、イエス様が逮捕されると怖くなって逃げ出し、嘘をつくような情けない者たちでした。そんな彼らをイエス様はどうして選ばれたのでしょうか。先週はイエス様がヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたお話を読みました。神殿で定められた祭儀を繰り返し行うことで救われる、という旧来の教えとは異なり、エルサレムの丘から低く低く下ったユダヤの荒野で、そこに流れるヨルダン川に沈み込む「たった一回の洗礼によって、生き方が転換される」と伝えたヨハネは、多くの人々に受け入れられ、イエス様もその教えに共感し、そこに神様の御心があると確信して、洗礼を受けられました。しかし、その後、ヨハネを煙たく思った時の権力者たちによって、彼は逮捕され投獄されてしまいました。イエス様は師の逮捕に困惑しつつも、南部のユダヤ地方から、出身の北部ガリラヤ地方へと身を隠すように退いていかれたのではないかと思います。
イエス様はガリラヤにて、「天の国は近づいた」「神の国はもうすぐそこまで来ている」(17)と福音の宣言をされつつ、内心としては、神様の御心への確信がありながらも、一方では心中穏やかではない、不安や恐怖心もあったのではないかと想像します。故郷のガリラヤ地方で、宣教活動を始められた時に、イエス様が弟子たちを必要とされた理由。それはイエス様の活動が、決して独りでは出来ないものであった、共に働く仲間が必要だったということであり、また一緒にいてくれる友がいるからこそ、心強く歩むことが出来たということであったのではないでしょうか。イエス様が弟子たちに言われた「私に付いて来なさい」とは、上から下への命令ではなく、むしろ「私と一緒に来てください。そうしたら心細くないから」と懇願するような言葉だったのかもしれません。神の国は、決して一人で実現出来るものではありません。隣にいて、共に働いてくれる友がいてこそ、出来ることです。私たちは一人ではありません。私たちもまた「一緒に来てください」「一緒にやってみてもらえませんか」と隣の人に声をかけることを通して、今日も神様からの招きに応えて参ります。