お知らせ内容
2月16日 メッセージより
2025年2月16日 メッセージ「心の貧しい人とは」より
水谷憲牧師
聖書 マタイによる福音書 5章 1-12節
「心の貧しい人々」とは誰なのか。「心の貧しい」とは、私たちの自然な感覚では、自分勝手で、人の不幸を喜び、幸せをねたみ、人を蔑み、傷つけ、差別して平気でいるような、そんな情けない性根。そんな心を持った人が「幸い」で、「天国はそんな人のものだ」とキリストは言うのか。確かに、天国が「心の豊かな者」だけのためにあるのなら、私たちのほとんどは天国に招かれる希望はない。しかし天国が、性根の腐った「心の貧しい奴ら」のものだとしても、こんな救いのない話はない。別に完全な人間ではなくとも一生懸命生きようとしている正直者は、いつまでもバカを見続けないといけないのか。
1節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」。この時代、病気の原因は悪霊の仕業、または本人や先祖の犯した罪だと考えられていたため、「この群衆」は差別され、共同体からも隔離されたりしていた。彼らも人間不信や猜疑心、嫉妬心やいじけた気持ちなどで心を貧しくさせられていたのかもしれない。しかしそんな彼らが、イエスの評判を聞いて各地から続々とイエスの元にやってきたのだ。イエスは、そんな彼らを見て山に登り、「幸い」について教え始められたのだ。
つまりイエスの言われた「幸いな者」すなわち「心の貧しい者」は、自分の心の貧しさに心を痛めている人・自分の心の貧しいことを知っている人、そしてその心の貧しさからの解放を願っている人のことだったのではないか。些細なことで家族に怒鳴り散らす自分。人をうらやみ、自分が不幸なのはあいつらのせいだと自分を正当化し、責任を周りに押し付けながら生きる自分。ねたんでいた他人が不幸に襲われることでほくそえむ浅ましい自分。人を蹴落として少しでも優越感を感じたいと願っている卑怯な自分。諦めと恨みの気持ちで内にこもってしまういじけた自分。そんな、自分でも認めたくない醜い一面が自分にも確かにあるということを痛みと悲しみをもって認め、そこから解放されたいと願っているこの私に向けて、キリストは「天の国はそんなあなたのためのものだ」と言われる。
自分の心の貧しさに痛みを感じつつもがく「心の貧しい人々」にこそ、キリストは「喜びなさい。大いに喜びなさい」と励まして下さる。自分の心の貧しさを謙虚に引き受けて神の助けを願い求め、天国に迎え入れていただける者となっていきたい。