お知らせ内容
3月2日 メッセージより
2025年3月2日 メッセージ「大切にすることは何か」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 6章 16-21節
今回のお話は「断食する時には」と「天に宝を積みなさい」の2つのお話でした。当時のユダヤ教では断食が日常的に行われていたようですし、最初期の教会の中でも断食が行われていたようです。現代の教会でも、今週から始まる「受難節」には、その始めと終わりに食事を1日1食にしたり、お肉を食べないようにしたりする教会もあります。ですが、ここでイエス様によって述べられていることは「断食をするかしないか」「どのようにするか」ということよりも、「もっと大切なことがある」ということのように思います。「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない」(16)というのは、他人から「さすがだ、立派だ」と評価されることを求めて、またそれに満足していては本末転倒だ、ということでしょう。そもそもイエス様が語りかけられた相手の人たちは、「色々な病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人たち」(4:23-25)でした。ですから、恐らく普段から定期的な断食なんて、とても出来ないような貧しい人たちでした。
「断食の形骸化」は、いつの時代でも常にあったことであり、イエス様の時代よりもずっと昔から預言者は批判していました。「6私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。7飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか」(イザヤ書58:6-7)。つまり、社会正義と社会福祉の両方の実践こそが、神様が全ての人に望まれている生き方として、「本当の断食なのだ」と記されています。後半の「天に宝を積みなさい」も、この言葉が語られた人たちが、宝も富も持っていなかった人たちであったということを覚える必要があります。今、私たちが手にしている様々な物は、分かち合うために与えられた物であり、決して自分一人で握り締めるために与えられた物ではありません。本当に「大切なもの」とは一体何か。もうすぐ今年のレント(受難節)が始まります。約6週間にわたるレントの期間は、イエス様の受難、十字架の意味について思いを馳せるだけではなく、その生き様、生涯について考え、また私たちがイエス様に従うとはどういうことかについて考える時です。神様が私たちに望まれている生き方、人も自分も互いの命を大切にし合い、後悔のないように生きられるように、私たちは今日も神様と共に、ここから導かれ、背中を押されて歩み出して行きます。