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2025年6月1日 メッセージより

2025/06/03(火)

2025年6月1日 メッセージ「キリストに結ばれて生きる」より

牛田匡牧師

聖書 エフェソの信徒への手紙 4章 116節

 現代日本語の「結ぶ」は、「つなぐ、ゆわえる、関係をつける」というような意味ですが、古代日本語では「むすひ」はあらゆるものを生み出す力という意味でした。一見、何もないと思っていた所に、いつの間にか「苔が()す」ように、不思議な力として、天地万物を生成し、存在させる「むすび(産霊)」の力。そこから生きている子どものことを「むすこ」「むすめ」と言ったり、また今日でも「縁結び」という言葉などが残ったりしているそうです。

 そんな「結ぶ」という言葉ですが、「キリストに結ばれた生き方」とはどのような生き方のことなのでしょうか。それはどうも「離れていたもの同士がくっついて結ばれる」のとは違うような印象があります。むしろ「全てのものの父なる神は唯一であって、全てのものの上にあり、全てのものを貫き、全てのものの内におられます」(6節)とあるように、神の力は偉大であり、私たち人間を超えて「上にある」と同時に、「全てのものの内」にも存在している。だから「もともと一体であり、ずっと離れたことなどなかった」と表現する方が適当なのではないかと思います。

 来週はイースターから50日目を意味する「ペンテコステ」です。その10日前、十字架上での死からの引き起こしの後、イエス様は40日間にわたって弟子たちに姿を現され、その後天に上げられて、姿が見えなくなった(使徒言行録1章)とされています。「天」というのは、神様の仕事場、目に見えない神が働かれている所そのもののことだと理解することが出来ます。復活のイエス様は、その姿は見えなくなったけれども、神様はそもそもの初めから全てのものの上にあり、かつ全てのものの中にあり、今も私たちと共におられるということ。私たちが神様の中に今、生かされているということ、そのものに他ならないのだと、改めて気づかされるかと思います。「キリストに結ばれて生きる」とは、言葉を変えると、「命の神に今日も生かされている」ということ。与えられた命、生かされている命なのだから、隣の人の命もまた大切にしようと思うこと。イエス様の言葉と振る舞いに従って、歩んでいこうとすること。そのことなのではないかと思います。与えられ、生かされている命なのだから、今日もまた、キリストの内に、キリストと共に、キリストによって、私たちは用いられていきます。

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