お知らせ内容
8月2日 メッセージより
2020年8月2日 久宝教会 平和聖日礼拝
聖書 ローマの信徒への手紙 14章13-23節
梅雨も明け、真夏の日差しが照り付けるようになりましたが、皆マスクをして外を歩いています。コロナ禍の中で「店頭には自治体公認のステッカーがありますか」「マスクをしていますか」「PCR検査の結果は陰性でしたか」など、人を区別する空気でいっぱいです。このように人を区別するのは、今から2000年前も同じでした。ユダヤ教の律法には、細かい食物規定があり、それを守ることができる義しい人と、守ることができない罪人とに区別されました。そのような時代に、イエス様は「何を食べるか否かで、人が汚れたりするわけじゃない」と言われたわけです。しかし、そのようなイエス様に従った人々の中にも、やはり食物に良し悪しを言う人々が何人もいました。
そのためにパウロは「食物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません」と書き送っています。何故なら、「神の国」とは何を飲んだり食べたりして良いか悪いかではなく、聖霊と共にあって実現する正義と平和と喜びのある所にあるものだからです。大切なことは、「これは食べても大丈夫かな」と疑ってしまう自分を脇に置いておいて、「何を食べても大丈夫」という神様からの力を受けて歩むこと、そして周りの人たちともお互いに裁き合わないということなのでしょう。
コロナ禍が全世界規模で広がっている現在、自他の間に境界線を引き、「ここは安全」と言うことは、もはや意味をなしません。そのような時代の中で、在宅でも出来る支援活動としてクラウド・ファンディングが脚光を浴びています。暗闇の中に光が輝くように(ヨハネ1:5)、この時代も決して絶望だけに終わってはいません。命を創られた神様は、その全ての命を取り去ることはないと、大洪水の後に虹を立てて約束されました(創世記9)。私たちは今も、その神様の計画の中に生かされています。
「平和」はある特定の境界線の中、区切られた聖域、清さの中にあるわけではありません。神様(聖霊)と共に歩むその働きの中に、正義と喜びと共に実現されるものです。「あなたは平和に生きていますか」という問いに対しては、私たちはどのように答えられるでしょうか。時代的、社会的に、今の社会は決して平和ではありませんが、そのような現実の中にあっても、私たちは平和を求めて、足元から平和をつくる人へと変えられて行きたいと、願っています。