お知らせ内容
7月13日 礼拝メッセージ・週報
2025年7月13日 部落解放祈りの日礼拝メッセージ「いのちは誰のものか」より
牛田匡牧師
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章 13 - 15節
本日は「部落解放祈りの日」として、あらゆる差別からの解放を覚えて祈り求めていきたいと思う一方で、それとは逆方向に、日本社会も世界情勢もますます分断と差別を助長するような流れになってきていることに胸が痛みます。「差別」の根底にあるもの、それは不信感であり、不安感でしょう。安心することができずに不安だから、怯えてしまって、周りを攻撃するのだと思います。聖書の中心メッセージの一つは、「恐れるな」「怖がらなくても大丈夫」です。なぜなら、命の神がいつも共におられるからです。神様は、この世界の全て、全ての命を素晴らしいものとして、「極めて良いもの」として創られたと聖書は言います(創世記1)。互いに差別し合い、嫌悪し合っていては、全ての命が生き生きと輝くことはできません。そもそも私たちの命は、頂いている命であり、生かされている命です。自分のものであるようで自分のものではありません。だからこそ、「良いもの」として創られた全ての命は、互いに大切にし合うことができるはずです。
聖書で言われている「永遠の命」とは、この肉体の死後、時間的にずっと永続していく命という意味ではありません。イエス・キリストの価値観を、自分の価値観として、神様と直接結びついた「真実の命」を生きることです。そしてそのような人は、自分と他人とを比べて優劣をつけたりすることもなく、互いに掛け替えのない唯一無二の「絶対の命」を与えられている存在として、互いの命を大切にし合って生きることができます。それこそが神様の御心に適うことではないでしょうか。人は自分が経験したことしか、なかなか他者に対してもすることできない不器用な存在です。だからこそ、周りの人たちから大切にされたという経験が先にあってこそ、また自分の過ちを赦してもらったという経験があってこそ、自分も周りの人たちを大切にしたい、その過ちを赦してあげたいという気持ちにつながるのだと思います。
「いのちは誰のものか」。全ての命は神様から与えられた頂き物であり、預けられ委託されている預かり物です。恵みとして頂いているものですから、それを競争の材料にしたり、排斥の材料にしたりするのではなく、隣人たちと共に活かし合い、輝かし合うように、活かし合っていく道へと、私たちは今日も導かれていきます。