お知らせ内容
8月9日 メッセージより
2020年8月9日 久宝教会 聖霊降臨節第11主日礼拝
メッセージ「わたしの記念として」より
水谷 憲 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23-26節
2020年8月9日は太平洋戦争末期、長崎に原子爆弾が投下された日から75年。これによって当時の長崎市の人口の約3分の1である7万4千人が死亡し、同じく7万4千人が負傷した。被爆者の手記には、爆死した家族との別れにも悲しいとも思えず、ただ呆然としていたという記述が多くある。あるいは、原子爆弾のせいで、人間が人間でないものにされてしまった様子に、恐怖を感じて逃げてしまったことへの深い後悔。被爆者たちは皆、心がずたずたに引き裂かれた体験を持つ。生き延びたからといって簡単に喜べるものではなく、むしろ「あの時一緒に死んでいた方がましだった」と死者をうらやむほどの、その後の辛い人生を思う。そしてその体験は、決してヒロシマやナガサキという、日本だけのものではなく、その後戦争の起こった所には必ずあった出来事であり、私たちの見上げる同じ空の下で今も続いている悲しみでもある。
「コリントの信徒への手紙Ⅰ」は、混乱・争い・分裂の危機に直面しているコリント教会に対してパウロが宛てたもの。主の晩餐(聖餐)についてパウロが説明しているが、原因はどうやら教会員同士の仲間割れのようだ。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。いわゆる原始キリスト教会において、愛餐会と聖餐式の区別はなく、「食事」が「主の晩餐」だった。コリント教会では、それぞれ好き勝手に食事をしていたのだろう。それではダメなのだ。多かれ少なかれ、教会という共同体には仲間割れもあるかもしれないが、それでも私たちは主の晩餐を大事にしなければならないのだ、とパウロは石を投げている。
主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、言われた。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」。辞書によると、「記念」とは「過去の出来事への思いを新たにし、何かをすること」とある。つまり、イエスを記念するとは「イエスの十字架の出来事」をもう一度私たち自身が追体験することであり、その体験を踏まえて、生前のイエスの姿を思い起こし、そのイエスに倣った歩みを私たち自身が踏み出していくこと、と言えるのではないか。
イエスは、相手がどんなに周りから蔑まれている人であろうと構わず、共に食卓を囲んだように、私たちが隣にいる人を大切な存在として認め、共に歩んでいくために備えられた場の一つが「主の晩餐」なのだ。「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです」とパウロが言うように、私たちも自分が受けたものを、私たちなりの形で、誰かに受け渡してゆきたい。例えそれがほんの小さな形であったとしても、私たちそれぞれのイエスを記念した小さな働きが合わさって、いつか大きなうねりとなり、世界を優しく変えてゆくことを信じたい。ヒロシマやナガサキ、あらゆる戦争で亡くなり苦しんだ全ての方々のこと、そして私たちの罪を引き受けて十字架につかれたイエス・キリストのことを記念して、歩みを進めていきたい。