お知らせ内容
8月23日 メッセージより
牛田 匡 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙I 3章1-9節
今回の聖書は、大都市コリントにあった教会に宛てたパウロの手紙でした。都市の中でも「弱い者」「取るに足らない者や軽んじられている者」「無に等しい者」とされていた人たちが、その教会のメンバーでした(1コリント1:26-28)。教会は「富や権力、暴力によって、強い者が弱い者を支配するという世の価値観」とは異なった「神様の価値観」によって集まった人々の共同体でした。しかし、そのような教会の中においても、やはりメンバー同士の妬みや争い、対立や分派争いがありました。ある人は「私はパウロに付く」と言い、またある人は「私はアポロに付く」と言っていたそうです(3:4)。しかし、パウロは記しました。「アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか」(5)、「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです」(6-7)。
命の神様の働きが無ければ、いくら種を植え、水を注いだとしても、種が芽を出し、育つことはありません。肝心なのは「どの人がより正しいか、立派か、価値があるか」ではなく、命を与え、育んで下さる神様です。そしてパウロは「あなたたちは神の畑、神の建物なのです」と続けています。「たとえ今は分裂、対立していたとしても、そんなあなたたちも神様の働かれる畑です、神様の建てられる建物です。そのことを忘れずに、覚えていてください」ということでしょう。
さて、私たちは自分自身を「神様が働かれる畑」だと思えているでしょうか。ともすると「自分の人生」「自分の命」と思ってしまっているかもしれません。神様から生かされている命、神様が働かれる畑である私たちは、一体どのような実りのために用いられるのでしょうか。今、目に見える形での実りがあるにせよ、ないにせよ、神様の計画されている実りはこれからなのかもしれません。1年前には、新しい病気によって世界がこのような状況になるとは、誰も考えていませんでした。1年後の社会もまた、今とは全然違ったものになっているかもしれません。そのような時だからこそ、今までに手に入れた成果や形にこだわるのではなく、「誰かに付く」と言うのでもなく、他でもない神様が、共にいて働いてくださる畑であるということを思い出したいと思います。
神様は立派な建物の中や、高価なお供え物の前にはおられません。世間から見向きもされない片隅の名もなき人たちと共におられます。コロナの影響を受けて今、困っている方々と共におられます。その神様からの力と励ましを頂いて、分裂と対立ではなく、和解と一致を目指した歩みへと、私たちは今日も導かれて行きます。