お知らせ内容
3月1日 メッセージより
2026年3月1日 メッセージ「命の道を歩む」より
牛田匡牧師
聖書 マルコによる福音書 3章 10-12、20-35節
イエス様に癒してもらおうと病苦に悩む多くの人々がイエス様のもとに押し寄せました。その中には異邦人や異教徒たちも多数含まれていました。当時の文化的には、病気や障がいの人たちには近づかないのが常識でした。それこそ「悪霊や罪のせい」だとさえ考えられていたからです。しかし、イエス様はそれらの人々を避けることなく、自ら手当てをしました。そのような姿勢は、宗教的指導者であった律法学者たちからは、「悪霊に取り憑かれていて、悪霊の力で悪霊を追い出しているに違いない」と言われるほどでした。そのような批判に対して、イエス様は「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されない」と言います。これは全ての命の中に聖霊が生きて働かれているにもかかわらず、ただ律法を守ることができない社会的状況にある人たちを皆、一方的に「罪人」と呼び、断罪するような律法学者たちの言葉と振る舞いこそが「聖霊を冒瀆していることだ」というイエス様の憤りの込められた厳しい言葉でした。それだけではなく、イエス様は自分の家族や親族からも「気が変になっている」と思われていて、取り押さえに来られたことさえありました。最も近くにいて理解していてほしい身内の人たちからも理解されない苦しみ……。しかし、イエス様は「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。「神の御心を行う」こと、つまり人が人として大切にされていない状況の中で、人を人として大切にすること、そこにこそ命の神が紛れもなく共におられるということに、イエス様は信頼して、身をもって歩まれたのだと思います。
人が人の上に立ち、人を消費し浪費し、そして時に人の命を奪うことすら、当たり前であって、それが「良し」とされる世の中で、それらを否定することは、非常識であり、「気が変になっている」とすら言われかねないことです。そして実際、イエス様はそれが故に、身内からも理解されることなく、十字架へと続く茨の道を歩むことになりました。けれども、同時にその道は十字架で終わりではなく、その後へと続いていく命の道でもありました。また新たな戦争が始まりました。多くの情報が交錯し、どの道を進めばよいのかが分かりづらくなっている現代において、私たちは道を誤ることがないように、イエス様の後に従って、真実の命に至る命の道へと、今日も歩みを進めて参ります。





