お知らせ内容
9月6日 メッセージより
2020年9月6日 メッセージ「光る 光る すべては光る」より
牛田 匡 牧師
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章7-20節
この『エフェソの信徒への手紙』は、不特定多数の教会で読まれるように執筆されていますが、「光」は「闇」との対比の中で描かれ、「光の子」とは「闇の中にあって光を放つ存在」とされています。そして「今は悪い時代」とあります。聖書で言われている「悪」とは、人を抑圧することですが、この手紙が記された紀元1世紀の地中海世界は、現代以上に差別と格差、抑圧に満ちた世界でした。そして教会にはそのような社会の中で、弱く小さくされ居場所が与えられなかった人々が集まっていました。ここに引用されている歌は、最初期の教会の中で歌われていた賛美歌だと考えられています。「眠っている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ」とは、イエス様の「復活」と同じ言葉です。苦難と抑圧に満ちた闇の中で、多くの人が殺されています。現代でも「身体は生きていても、霊は死んでいる人」がいます。それこそ仕事に「忙殺」されていたり、お金の「亡者」になっていたりすることがあります。そのようなあらゆる死の力からキリストと共に立ち上がり、解放されて自身の本当の命を生きるようになる……。それが最初期の教会の姿でした。皆で教会に集まって賛美歌を歌い、聖書のお話を聞いてお祈りをする。そしてお互いに持ち寄った食事を感謝して皆で分かち合って頂く。差別と抑圧に満ちた暗い世の中にあって、そのようにお互いが解放されてホッと一息をつける場所は、まさに光に満ちた時間と空間だったのだろうと思います。
さて今日、私たちはそのような教会の歴史の上に立ち、「光を放つ者」として歩めているでしょうか。そのことを思う時、坂村真民さんの詩を思い出します。
光る 光る すべては光る 光らないものは ひとつとしてない
みずから 光らないものは 他から 光を受けて 光る (坂村真民)
考えて見れば暗い夜空に白く輝く月も、自ら光ってはいません。しかも夜の闇が深ければ深い程、月は明るく輝きます。「光の子として歩みなさい」「光を放つ人になりなさい」と言われる時、実は私たちは自ら光り輝くことを求められているのではなく、神様と共にあって神様からの光を受けて、初めて光るのではないでしょうか。だから私たちは自分の力の多い少ないに一喜一憂するのではなく、隣の芝生の青さを気にかけることもなく、安心して神様によって用いられていきたいと思います。教会はその最初期から、時間もお金も力もない人たちの集まりでした。足りないだらけの人たちの集まりの中に、神様が共にいて下さって、補い合って余りある共同体として用いて下さいました。神様からの光を頂きながら、私たちは今日もここから用いられて行きます。