お知らせ

お知らせ内容

9月20日メッセージより

2020/09/26(土)

2020年9月20日メッセージ「あくのじゅうじか」より

水谷憲牧師

ヨハネによる福音書10:1-6

 昔、友人の牧師から聞いた話。教会学校の分級で、2チームに分かれて絵による伝言ゲームをした。両チームの先頭に与えられたお題は「イエス・キリスト」。その結果、一方のチームの最後の人の答えは「ひげの生えたおじさん」だったが、もう一方のチームの最後の人は「イエス様」と答えることができたという。分かれ目は十字架だった。男が十字架にはり付けにされていたのか、十字架を担いでいたのか、隣に十字架が描いてあっただけなのか……。いずれにせよ「おじさん」と一緒に十字架が描かれていることによって、みんな「この人はイエス様だ」と分かったのだろう。この話は、私たちにとっても意味深いのではないか。あの十字架の出来事がなければイエスはキリストたり得ず、福音書も単なる偉人伝にとどまり、私たちの魂を救い解放し、復活への希望に導くキリスト教はなかった。私たちのキリスト信仰も十字架を抜きには語れないはずなのだ。

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である」。現在は宗教も多様化し、キリスト教も色々だが、中にはキリスト教を自称しつつも実質的には全く別物の宗教もある。門を通ってきたかどうかの基準は十字架だ。私たちのために命を捨てて十字架についてくださったのは、他でもないナザレのイエスのみ。キリスト教を自称しながら、自分たちの教祖の教えを広め、信者を獲得しようとするのは、まさに盗人だ。信者を金集め・信者集めのための道具とし、無理に財産を献げさせたり借金してでも献金させたり、そんなもの私たちを大切な1人として愛してくださる神様のなされることでは決してない。

 羊の囲いの門には門番がいる。彼は誰にでも門を開いてくれるわけではない。門番に門を開けてもらい中に入るためには、十字架が必要なのだ。門が「あくの」には「じゅうじか」がいるのだ。私たちは羊飼いの声を注意深く聞き分けなければならない。その声が本当に羊飼いのものなのか、その者が十字架のキリストをちゃんと語っているのか、しっかりと見極めなければ。もちろん、多くの宗教はまっとうな教えを持つ。しかし私たちは、キリストに従う者として「キリストでないもの」と「私たちのキリスト」とははっきりと区別してゆきたい。

 私たちのキリストへの信仰の中には、十字架が入っているだろうか。なぜ自分がイエス様を慕っているのかというと、それはやはりイエス様がこの私のために十字架について下さった、それほどまでにこの私を大切にして下さったからではないのか。そこを私たちは、いつも覚えておきたい。

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135

【郵便振替】00980-5-212130「日本基督教団久宝教会」

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135