お知らせ内容
9月27日 メッセージより
2020年9月27日メッセージ「残りものにも福がある」より
聖書 エフェソの信徒への手紙 3章14-21節
誰からも評価されない時、自分には価値がないと感じてしまうことがあります。そしてそのような時には、神様からも見放されたように感じてしまいます。しかし、神様は私たち一人一人の中に紛れもなく生きていて下さると約束されています。「エフェソの信徒への手紙」は、当時の教会内における「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」との間の問題に対して送られた手紙だと考えられていますが、要するに「ユダヤ教伝来の律法を守っているかどうか」ということは関係ない。キリストの愛、神様の力は全ての人に開かれ、与えられている。いやキリストが私たちの内に生きて下さっている、ということを述べています。頼りない私たちの信仰によってではなく、むしろ神様が主体として私たちの心の内に住んで下さると言われています。「他人から評価されることによって、私には価値がある」のではなく、「私たちと共に生きて下さっている神様、命を与え生かして下さっている神様が、私の内にいて下さっているからこそ、私には価値がある」。その事実に気付けるようでありたいと思います。
神様はどこにいるのでしょうか。例えば、「炊き出しの列にならぶイエス」という版画では、イエス様は人々に炊き出しを配る側ではなく、人々と共に受け取る側に並んでいます。また「希望の食卓」という絵では、イエス様が路上で生活する子どもたちからパンを分けてもらっています。神様はゆとりがあって助ける側ではなく、むしろ今苦しさの中にあって他人から助けてもらう側にいる……。私たちは他人から評価され、「勝ち組」になれることを、神様のおかげ、ご利益、祝福だと理解して来たのではないかと思いますが、本当はむしろ逆で神様は「負け組」の中におられるのではないでしょうか。
一見すると、神から見放されたような苦しい状況の中にこそ、神様は共にいて下さっている。神様は助ける側ではなく、助けられる側にいる、「残りものにも福がある」……。今、私たちの周りで「残りの者」は、どこにおられるでしょうか。私たち自身でしょうか、それとも周りにおられる方々のことでしょうか。そしてイエス様はどこにおられるでしょうか。この礼拝の後、今月も釜ヶ崎の方々のために「おにぎり支援」を行います。しかし、本当なら炊き出しやおにぎり配りの列には並びたくないというのが当然の思いでしょう。それに対して今、私たちは他の方法を取ることが出来ないという限界を覚えつつ、イエス様の歩みに従う者へと変えられて行きたいと願っています。