お知らせ内容
2月16日 メッセージより
2020年2月16日メッセージ「よくぞここまで生きて来た」より
牛田 匡 牧師
聖書 ヨハネによる福音書 1章 35―42節
エルサレムの町のそばにあった「ベトザタの池」では、時に水が動くと病気の癒しが起こると評判になっていたようです。そしてその池の周りには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。皆、癒されることを願って、ひたすら水が動くその時を待っていたわけです。そこに38年間、病気で苦しんでいる人がいました。イエス様がその人に「良くなりたいか」と声をかけると、その人は答えました「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」。
この人が、池のほとりで何年待っていたのか、またこれまで癒された人を何人見て来たかも分かりません。しかし、きっと自分一人では身動きがとれず、先を越されて悔しい思いを何度も経験してきたのでしょう。彼の言葉には「誰も自分を助けてくれる人がいない」という絶望感があります。そしてそのような彼に対して、イエス様は「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われ、その人は池の中に入ることもなく、すぐに良くなって歩き出しました。
深い絶望の中にあり、神様に向かって抗議したいと嘆いても、どこにも神様を見つけることはできない……。しかし、実は私が神様を探して見つけるのではなく、神様の方が私と共にいて下さっている、と「ヨブ記」には記されています(23:1-10)。ここでも病人が「良くなりたいです。癒して下さい」と訴える前から、その気力すら失っていても、イエス様の方から「良くなりたいね。よくここまで生きて来たね」と共感して下さったのでしょう。神様の力はそのような最も弱くされている人の所、孤独と絶望に苛んでいる人の所にこそ働きます。
今、私たちの身の回りにいる「38年間病気で苦しんでいる人」「絶望と孤独に苛んでいる人」は誰でしょうか。先日の会津放射能情報センターの報告会「考えること、悩むことは、いのちに向き合うこと」では、福島第一原発の核事故被害者・当事者は、その地方に住んでいる人たちだけではない、現代に生きる全ての人が当事者であり、被害者であるというお話を伺いました。何が正解なのか、明確な答えの見えない難問に、一人ではなく仲間たちと共に挑み続け、考え続け、悩み続けること……。それは決して楽な道ではないでしょうが、そこに神様が共にいて働いて下さることを信じて、これからも歩みを進めて行きたいと願っています。