お知らせ内容
1月10日メッセージより
2021年1月10日メッセージ「人は見かけか、内面か」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 3章13-17節
今回の聖書のお話は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたというお話でした。ヨハネは荒れ野にいて、町の宗教指導者たちとは異なった教え、差し迫った神の怒り、裁きを述べ伝え、人々に悔い改めの洗礼を授け、生き方の変革を促していました。そこに各地から大勢の人々が集まって来ていましたが、その中にイエス様もいました。聖書にはイエス様が受洗するとすぐに天が開け、神の霊が鳩のように降って、宣教を開始するための特別な力が授けられたかのように記されていますが、実際にはヨハネの許で何日間も生活する間に、ヨハネとは異なった独自の神の国の福音理解がインスピレーション(ひらめき)として生じた、それを「聖霊が降った」と表現したのではないかと思います。その後、イエス様はヨハネとは袂を分かち、ご自分で教えを宣べ伝えられました。
イエス様がヨハネから洗礼を受けた場所として伝えられている「ヨルダン川対岸のベタニア」(ヨハネ1:28)のアル・マグタス遺跡は、2015年に世界文化遺産として登録されました。そこは世界で一番海抜が低い湖である死海の北9km、ヨルダン川の東側の岸にあるそうです。イエス様がおられたナザレのあるガリラヤ地方からすると、ヨルダン川に沿って下へ下へと低く降って行ったということが分かります。日本では水や川というと、澄んでいて清らかなイメージがありますが、ヨルダン川の水は濁っているそうです。そのためにそこで行われたバプテスマとは、日本で考えるような清らかな水で罪やケガレを流し去って洗い清める「禊」ではありませんでした。むしろそれは「泥水をくぐる」ことであり、水の中で一度これまでの自分に死んで、この世界をより低い、より汚い泥水の中から見つめ直すこと、それまでの自分の価値観を捨てて、新しい神様の価値観を身に帯びて生き直すことの象徴行為だと考えられます。
私たちはともすると、洗礼を受けているか、受けていないか。礼拝に出席しているか、出席していないか。献金しているか、していないか……など、様々なことで目の前の人を区別して、裁いてしまいます。しかし、それは人を外見だけで判断していることと同じではないでしょうか。「人は見かけか、内面か」と言った時、つい外見に気を取られてしまいやすい私たちに対して、神様は「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル上16:7)と言われました。「人は見かけか、内面か」、人間の判断を飛び越えて、神様の働きは、低く小さくされている者の内に現れます。私たちは日々に迷ったり、つまずいたり、進むべき道を見誤ってしまったりもしてしまいますが、それでもいつも共にいて導いてくださる神様に信頼して、今日もここから押し出されて行きます。