お知らせ内容
2月23日メッセージより
2020年2月23日 メッセージ「平和に生きるための向かい合う同伴者」より
牛田匡牧師
聖書 創世記2章18-25節
命の神が最初の人を造った時、神は「人が独りでいるのは良くない」と言われました。確かに人は一人では生きていけません。しかし、神は「彼にたくさんの仲間を造ろう」と言う前に、「彼に向かい合う同伴者を造ろう」と言われました。旧来の翻訳では「彼にふさわしい助け手」でしたが、それでは上下関係で理解されかねません。ここで「同伴者」と言われている二人は、どちらか一方に対して「ふさわしい」のではなく、互いに対等に「向かい合う」関係です。そのために、時には衝突も対立もするけれども、いつも共に歩むパートナーです。私たちにはそのような存在が必要だというわけです。
そして、神は人のあばら骨からもう一人を造られました。「あばら骨」というのは、当時「魂の宿る所」と考えられていた部分です。人は目覚めた後、そのもう一人を見て、「これこそ、私の骨の中で最も骨らしいもの。私の肉の中で最も肉らしいもの」という賛辞を述べ、「私はこれをイッシャー(女)と名付けよう。これはイーシュ(男)からとられたから」と言います。これは古代ヘブライ語の語呂合わせで、生物学的な「男性」「女性」というよりも、「AとA’」「一人ともう一人」という類似性、近しさの表現です。
最後の「二人ともお互いに裸であった。しかし恥ずかしいと思わなかった」は、正しくは「お互いに裸であった。そして恥ずかしがらなかった」です。私たちは普段、方々で様々な衣装や仮面を身につけ、色々な自分を演じ取り繕っていますが、「向かい合う同伴者」の前では、それらを脱ぎ捨ててお互いに裸でいることができる。私たちには、そのような深い関係性を持った相手が必要なのだということです。
そのような創造物語に学びつつ、私たちがパートナーと共に生きる目的について、聖書には「神があなた方を呼び合わせたのは、平和に暮らせるようになるためでした」(1コリント7:15c)と記されています。即ち、私たちがパートナーと出会わされて生きているのは、イエのためでも、主人のためでもなく、神様から命を与えられた一人として、自分の命を生き、平和に生き、平和を作っていくためだということです。ですから、現行の結婚という社会制度に縛られる必要もありません。
命の神は、私たちが互いに平和に生きるために、この世界を平和にしていくために、私たちを造られました。これまでの日々を振り返り、神様から与えられた数々のご縁に感謝すると共に、神様のみ心に思いを馳せて、私たちは今日も新しく歩み出して行きます。