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2月21日 メッセージより

2021/02/21(日)

2021221日メッセージ「神は試練を与えません」より

牛田匡牧師

聖書 マタイによる福音書 4111

 今回のお話は、イエス様が悪魔から「試み」「誘惑」を受けるというお話でした。人を惑わし誘惑する者、確信の間に疑う心を投げ入れる者、人と人とのつながりを分断する者、それが悪魔です。悪魔はイエス様を荒れ野やエルサレムの神殿の屋根の上、非常に高い山の上などに連れて行き、それぞれの場面で誘惑しました。「空腹なら石をパンに変えてみろ」「屋根の上から飛び降りてみろ、天使が守ってくれるはずだ」神の子ならできるはずだ、というわけです。さらに全ての国々とその繁栄を見せて「これを全部与えよう。ただし私を拝むなら」とも言いました。しかし、イエス様はいずれの誘惑も斥けました。飢えている人にパンを差し出すことは、絶対に大切なことです。ですが、そのパンをめぐって、人が人を支配するようなことになってしまってはいないでしょうか。「人はパンだけで生きる者ではなく、神の言葉によって生きる」とは、パンだけではなく、太陽も雨も、食べ物も着る物も、住む所も、家族も友人も、全ては神様から頂いているもの、人はその恵みによって初めて生かされているということです。また奇跡についても、「奇跡が起きるか起きないか、それが大事なことではない」と、イエス様は悪魔の誘惑を斥けました。

 「悪魔」は私たち自身の中にもいるかと思いますし、私たちもまた時として誰かを惑わし、試みる存在になってしまってはいないでしょうか。「あなたにはこれができるはずだ」「こんなこともできないのか」、右と左を分け、良し悪しの評価を付け、人や自分を断罪します。しかし、それは決して神様の業、働きではありません。「ヤコブの手紙」には「試練に遭った時、誰も『神から試練を与えられている』と言ってはなりません。神は人に試練を与えません」(113)と記されています。苦難や困難に遭った時、それらを神様から与えられた試練、成長の機会だと受け止めて、前向きに取り組める人もいます。しかし、全ての人がそのように受け止められるわけではありません。「どうしてこんなことが起こったのか」と、いつまでも答えを探し続けておられる人たちに対して、「これは神様がくださった試練ですよ」と、一体誰が言えるでしょうか。

 試練と困難は違います。この世界は今も昔も困難なことだらけです。そして聖書に記されているのは、様々な困難の中にいる人々に対して、「大丈夫。私がいつでも一緒にいる。あなたを守り、あなたを決して見捨てない」と語り掛け続ける命の神の言葉であり、またその人たちと共に歩まれたイエス様の生き様でした。神は試練を与えません。だからこそ、私たちは目の前の困難について、これは試練かどうかを悩む必要はありません。命の神の恵みは、全ての人に注がれています。長引くコロナ禍、経済不況の下、人と人とが裁き合い、疑心暗鬼になりつつあります。そんな中、私たちはいつも共にいて下さる神様に、手を引かれ、背中を押されながら、隣の人たちとゆるやかにつながりつつ、共に困難を担い合う道へと、歩みを進めて行きます。

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