お知らせ

お知らせ内容

7月18日 メッセージより

2021/07/18(日)

718日 聖霊降臨節第9主日礼拝

メッセージ「ミカル、(いか)る」より                                       岡嶋千宙(ちひろ)伝道師

聖書:サムエル記 下  616, 2023

 「サウルの娘」であり「ダビデの妻」であるミカル。その呼び名から分かる通り、ミカルはいずれも王である二人の男性に翻弄(ほんろう)された人生を送ります。だからといって、主体性を持たない女性であったわけではありません。父サウル亡き後、着々と権力を手中に収め王として台頭していく夫ダビデを、ミカルは「心の底から嫌」い(サムエル下616)い、「今日のイスラエルの王はなんと栄光にみちていたことでしょう」(620)と皮肉を込めて批難します。明確な理由は記されていませんが、その言葉を発した後、ミカルは「死の日まで子どもを持たなかった」(623)とされています。あるいは、正面切って批判の言葉を向ける妻に愛想を尽かしたダビデが、ミカルから遠ざかったからかもしれません。ですが、「子どもができない」のではなく、「子どもを持たない」と言われてといることからすると、ミカルは、自ら望んでその選択をしたのだと考えられます。当時、子どもがいないことは、共同体から疎外され得る要因となるものだったのに、あえてミカルが「子どもを持たない」ことを選んだのだとしたら。

 社会が大きく変化していく中で作り上げられていく流れ、多数の、あるいは有力な者たちが求める王制というあり方自体に対しての(あらが)い。さらに、王制の精神的/霊的支えであり、社会の中心で社会の形をつくり出していた男性たちの思い描いていた「神/主ヤハウェ」という存在に対しての反発。ミカルは、(あらが)い、声を上げたのです。自分自身を含めた女性たちを王制にまつわる政治的駆け引きに巻き込み、一人の人間としての存在を忘れさせるあり方を否定したのです。社会の中心にいた男性たちが描く物語を退け、自分たちの思いとは別のところで人を縛りつける「神」という枠を振り払ったのです。

 まるで、ミカルの思いを()み取ったかのように、ミカルが生きた時代から約1000年後、一定の属性を持つ人たちによって担がれ、大きな場にでんと座る神ではなく、一人ひとりのそばで、共にいてくれる神を説き示す人物が表れます。一人の女性を「誰かの娘」、「誰かの妻」と呼ぶのではなく、その人自身の名前で呼んだイエス。主イエスに(なら)い、わたしたち一人ひとりが、耳を澄まして、隣人の声を聴いて、共に(あらが)いの声を上げていくことができるように。

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135

【郵便振替】00980-5-212130「日本基督教団久宝教会」

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135