お知らせ内容
7月25日 メッセージより
2021年7月25日 メッセージ「平和をつくるために」より
牛田匡牧師
聖書 マタイによる福音書 9章 9-13節
今回の聖書のお話は、イエス様がマタイという徴税人を弟子にしたというお話でした。徴税人は、当時のユダヤを支配していたローマ帝国への税金を集める仕事でしたので、敵であるローマの手先として、ユダヤの人々から軽蔑され、罪人と見なされていました。イエス様はマタイに声をかけた後、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていると、それを見かけたファリサイ派の人たちが「なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と聞きました。それは「穢れた人たちと一緒に食事をしたら、自分も穢れてしまう」というわけです。それに対して、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と断言されました。神様の目はそのような方々にこそ注がれています。人々に「神様から求められている義しい生き方」を教えていたファリサイ派の人たちは、本当の神様の思い、真実を見誤っていたのでしょう。しかし、このお話はそのようにファリサイ派の人たちを批判して終わりなのでしょうか。
現代でも仏教にもキリスト教にも沢山の諸宗派、教派があるように、当時のユダヤ教にもファリサイ派やサドカイ派など、沢山の宗派がありました。都にいたサドカイ派は職業祭司で、神殿でのいけにえを重視していましたが、ファリサイ派の人たちは職人や農夫、商人など、普通の村人として、村での生活を送りながら、貧しい生活の中でも、何とか守れそうな安息日や食事規定を中心とする律法の順守を提唱しました。なぜなら神殿でのいけにえなど、貧しい村人たちには守れるものではなかったからです。彼らは貧しい民衆たちに寄り添い、いけにえではなく身の清さを保つことで義とされると人々に伝えましたが、やがてそれが人々を裁く口実となっていきました。だからこそ、イエス様はファリサイ派の人たちに「『私が求めているのは憐れみであって、いけにえではない』という聖書の言葉の意味を、あなたたちが差別しているこの人たちから教えてもらいなさい」と言って、気付きを促したのではないかと思います。
平和は「ここにある」「何かをしたら平和になれる」というようなものなのでしょうか。逆に言えば、それらが出来なければ平和にはならない……、そんな単純なものではないような気がします。「私が求めているのは憐れみであって、いけにえではない」と言われている「憐れみ」という言葉は、人の痛みを分かること、隣りに並んで共感するということです。平和をつくるために必要なことは、平和が失われている所、平和が奪われている人たちと出会うこと。人々から見向きもされず、踏みつけられている所に、目と手と心を向けることからしか始まらないのではないでしょうか。そしてそれは、どこか遠くにあるだけではなく、案外と身近な所、職場や家庭の中にも、また他ならぬ自分自身の中にも、確かにあるのではないでしょうか。神様から日々に命を与えられている私たちは、この命を使って、平和をつくるために、全ての命を大切にし合う歩みへと、今日も導かれて行きます。