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8月22日 メッセージより

2021/08/24(火)

2021年8月22日 メッセージ「見えないものに目を注ぐ」より

牛田匡牧師

聖書 マタイによる福音書 13章 24-43

 今回の聖書のお話は、イエス様がガリラヤの貧しい小作農や日雇い労働者たちに語った「毒麦のたとえ」、「からし種とパン種のたとえ」という3つのたとえ話でした。これらは聴き手たちにとっては、とても馴染み深い話題だったのでしょう。日本語では「毒麦」と訳されていますが、恐らく麦畑の中に、いつの間にか生えてくる「雑草」のことだろうと考えられます。田んぼでお米を作っている私たちの感覚からすると、それこそヒエでしょうか。ヒエがはびこると米の収量が減ってしまいますので、「毒麦」も農民たちにとっては「誰の仕業か」「敵の仕業だ」と言いたくなる位に、深刻な問題でした。しかし、ある程度大きく育つまでは、見分けがつきにくく、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないので、刈り入れの時にまず毒麦だけ集める、というのが古くからの知恵だったのだろうと思います。ですから、このたとえ話が伝えていることは「毒麦を抜き集めて焼くこと」よりも、むしろ敵か味方か、役に立つか立たないかを早まって判断しないで、「刈り入れの時まで一緒に育つままにさせておくこと」だと理解することができます。

 その後には「からし種」と「パン種」のたとえ話が続きますが、これら一連の話を聴いた人々は、心の中に何を思い起したでしょうか。恐らく、目には見えなかたり、小さかったりするけれども、確かにそこに存在しているもの。やがて芽を出し成長し大きくなっていくもの、全体に作用し膨らませるもの。神様の力はそのような形で、いつの間にか、どこからか、私たちの間に確かに働いている。私たちの日々の働きの一つ一つも、取るに足らない、力の足りない小さなものだけれども、それも神様によって豊かに用いられていく……。そのような期待、希望を与えたのではなかったでしょうか。

 私たちは普段、「見えるもの」、モノやお金、数値で測れるものに囲まれて暮らしていますから、それらが増えたり減ったりすることに、一喜一憂したりしています。しかし、本当に大切なこと、本当に価値のあるものは、そこにではなく、見えないものの中に、見えないものとして存在しているのではないでしょうか。今、コロナの感染者の数の増減や、経済状況の浮き沈みに一喜一憂したりしている私たちですが、目には見えないけれども確かに存在し、そして私たちと共にあり、私たちの間に働いて下さる神様に信頼して、これからの日々も私たちはこの命を豊かに用いられていきます。

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