お知らせ内容
9月12日 メッセージより
2021年9月12日 メッセージ「7の70倍までもゆるせ」より
水谷憲牧師
聖書 マタイによる福音書 18章 21-35節
ペトロが「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と尋ねた時のこと。「仏の顔も3度まで」という言葉があるが、当時のユダヤでも赦しの限度は3度までとされていた。ペトロはそれ以上の数をもち出して、いかにも寛大になったつもりでイエスに尋ねたのだ。「7回くらいまではやはり赦さないといけないでしょうかねえ」。しかしイエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。それはまさに無限大を意味するもの。イエスにおける「赦し」にとって、何度目かと数を数えることは、まったく無意味だったのだ。
しかし、ただでさえ弱く不完全な私たち。どうやったら7の70倍などと道徳的な努力の限界を超えることができるのか。例えば自分の大事な家族を無惨に奪った者に対して、私たちは無限の赦しを与えることができるのか。現実にはほぼ不可能だ。神であろうと、そんな哀れな人に向かって「辛いでしょうが、どうぞ赦しておあげなさい」なんてとても言えまい。だからこそ、罪を犯した者自らの「悔い改め」、「どうか待って下さい」という懇願がほしいのだ。
神もきっと、何でもただ無条件に赦せとは言っておられない。赦そうにも、罪を罪と感じていない者を、私たちは赦しようがないからだ。「赦」という漢字は、左側が「ゆるむ」という意味、右側が「人が鞭を打つ姿」が変化した形なのだという。ということはやはり、罪を赦すには、相手が鞭打たれるほどの罪の自覚に導かれることが必要なのだ。
赦せない気持ちを抱えながら、その相手を赦そうとするのは大変苦しいことだろう。しかしそんな時こそ私たちは、己の罪に気付いていない者に対しては彼がその罪に気付くように、自分の罪を悔い、赦しを求めている者に対しては、彼を赦す心を与えて下さいと祈れるようになりたい。イエス・キリストは、そんな私たちの複雑な思い、苦しい思いをも、きっと共に担って下さる。
もうひとつ、自分自身に対する赦しも同じくらい大事なこと。私たちはよく、自分自身をだめに思ってしまうこと、自分の罪深さや醜さに押しつぶされそうになることがある。ああ自分はだめな人間、しょーもない人間だ、本当に生きている価値はあるのかと、自分を否定する気持ちに飲み込まれそうになることがある。私が私のことを赦してあげないでどうするんだ。特に自分自身に対しては、責めすぎることなく、神と共にたくさん赦しを与えていこうではないか。