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9月26日メッセージより

2021/09/27(月)

20219月26日メッセージ「神NGアウト」より

岡嶋千宙伝道師

聖書 エステル記 7章 1-10節

 ユダヤ人の命を救うために、国の最高権力者である王の前に立つエステル。王妃就任以前を描いた2章の記述とは対象的なその姿。主体性がなく、自分の意思を持たず、誰かに指示されなければ行動できなかった若い女性が、自分の意思を持ち、その意思を表明し、表明した意思に基づいて行動する自立した女性へと変化していった理由。エステル記全体を通して物語の転換ポイントで登場する宦官に、その理由を探る鍵を見出すことができます。

 王妃として王宮で過ごす間、エステルは、宦官たちが自分の立ち位置に縛られず、対立の壁をこえて、自由に人々と出会い語り合う姿を目にします。彼らの個人的な経験を含めた話を聞き、生きざまを伝えられていたのかもしれません。そして、あちらとこちらを分かつ境界線を超えて自由に行動する姿の背後に、多くの人たちとは異なることに起因する痛みがあることを見出したのでしょう。エステル自身、両親を持たない孤児として、あるいはペルシア人から見たときの異邦人として、大勢とは異なること、人々から違う目でみられることの痛みを知っていたはずです。

 エステル記では、聖書の他の書物とは異なり、全体を通して、神の名が語られません。「主」という呼び名も、信仰的・宗教的なことも、モーセの律法も食事規定も、祈りさえもありません。神はNG。他の書とは異なる特質を持つのですから、その理解のためには、エステル記の中に描かれる見慣れた風景、聞きなれた言葉ではなくて、どこかしっくりこないところ、これまであまり注目されなかった箇所にこそ注意を払う、ということも的はずれではないでしょう。神不在の書物の中で、神のメッセージを伝える存在として、他の登場人物とは異なる宦官という存在に目を向け、気づかされます。痛みを背負うものだからこそ担える働きがある。人の苦しみを知っているからこそ、誰か別の人や民族の運命を変える力となりうる。

 そういえば、宦官と同じように生きた人がいました。神と人との境界線を越えたイエス。ローマ支配権力層だけではなく同胞ユダヤ人からも嫌われ、弟子たちにも見捨てられたイエス。そして、自分自身が異なりを持つものとして、出会う人々を変えていったイエス。そんなイエスに出会い、変えられた一人として。わたしもまた、異なる人々と出会い、彼女/彼らと共に生き、語り合い、お互いの違いを認め、共に生き、共に変わり続ける者でありたいと願います。

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