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11月7日 召天者記念礼拝メッセージより

2021/11/09(火)

2021年11月7日 召天者記念礼拝メッセージ「いのちの神とともに生きる」より

牛田匡牧師

聖書 マルコによる福音書 12章 1827

 日本語では、人が死ぬことを「亡くなる」と言ったり、「ゆく(逝く・往く)」と言ったりしますが、それぞれ「ない」の反対語は「ある」で、「いく」の反対語は「くる」です。では「死ぬ」の反対語は何でしょうか。「生きる」だと思いますが、その語源は、植物が水気が足りなくて「しなしな」になっているか、みずみずしく「いきいき」しているか、という言葉なのだそうです。つまり、「有るか無いか」ではなく、今ここに確かにある命、かつてあった存在が、自分にとって「しなしな」になっているか、それとも「いきいき」しているかということこそが大切なのだ、ということなのでしょう。

 今回の聖書のお話は、復活についての問答でした。今から2000年前にも「死者の復活はあるかないか」ということで、机上の空論が繰り広げられていました。イエス様は「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天のみ使いのようになるのだ」と言われました。古代ユダヤ社会における婚姻関係は、家の財産相続が主眼でしたので、地上では男性の所有物とされていた女性も、天国ではそのような一切のしがらみから解放されて、本来の命、魂、一人の人格として、いきいきと生きられるようになるのだ、ということでしょう。

 

 今日は、命の源、すべての命の創り主であり、与え主である神さまの御許(みもと)に帰っていった「天に召された方々」を記念する礼拝です。逆に言えば、その神様の御許から、この地上に生まれてきた、今ここに生きている私たちもまた神様の御許からこの地上に、それぞれの使命を持って送られて来た「天から遣わされた者たち(み使い)」です。毎週の礼拝を通して、私たちはイエス様の生き様と死に様を思い起こし、私たちも確かにそこにつながり、共に生き、共に復活する生き方へと導かれ歩み出していきます。また様々な事情から、礼拝に連なることができなくても、今、それぞれの人が与えられた命を生きているということ、それ自体が「いのちの神と共に生きている」ことに他なりません。生きている時も、死の時も、死を越えた生においても、この地上に遣われている間も、天に召された時も、いつでも神様は共におられます。「いのちの神とともに生きる」……。先に天に召された多くの方々のことを思い出し、偲びつつ、共に歩む時間を与えられた恵みに感謝して、私たちは今日もここから遣わされ、歩み出していきます。

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