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11月21日 メッセージより

2021/11/21(日)

メッセージ「かみがたり」より

岡嶋千宙伝道師

聖書:サムエル記 下 23 17

 人生の終わりに向かうなかで、ダビデが自分の歩みを振り返り、「神とはどういう存在だったのか。その神と自分はどう関わってきたのか」ということを想起しながら口にした言葉。「高く上げられた者」、「神に油注がれた者」(1節)であるダビデの語りは、一方で、それに触れる人たちにとっての励ましの言葉として聞こえます。ですが、他方で、疎遠な感じを否めません。きれいすぎる、整いすぎているのです。理想化されたダビデだからこそ言えた言葉。権力も、地位も、財力もあるダビデだからこそ言えた言葉。ダビデは、神が「共にあり、全てを整え、守り、救い、喜びを与える」(5節)と語ります。ですが、ダビデのようになれない人、信仰の純粋さを保てない人、弱い立場にありその日その時を生きるのが精一杯で、信仰の言葉すら忘れてしまいそうになる人たちはどうなのでしょう。そんな人たちは、そもそも神の救いに与ることが最初から想定されていなかったのでしょうか。

 いや。ここに記された神の姿、神の言葉に触れ、神の救い・喜びを得ることができるのは、何も特別な地位、権力、才能、財力を有した人だけではありません。ダビデが生身の人間であるが故の弱さや欠点により、忘れられ、消されてきた存在や声、命が立ち返ってくるのです。例えば、ダビデに妻バトシェバを寝取られ、策略により殺されてしまったウリヤと、ウリヤを殺され、強姦とも思われる仕方でダビデとの関係を持たされたバトシェバ(サム下11章)。そのような者たちの声、それは微々たるささやかではあるけれど、「高く上げられ油注がれた」イスラエルの王ダビデの言葉の中に、抗うかのように響き続けています。

 ダビデが見落とし、忘れ、目を背けた事実を、ダビデが生きた時代から約1000年後に拾い上げた人がいました。歴史の中で忘れられてしまいそうな者たちの声を拾い上げ、その声と神の語りとを出会わせた人物。いや、彼自身が神の言葉として、その者たちの生身の存在に触れ、その者たちの声を、命を自分の身に引き受けた人物。キリスト教会が真に油注がれた者、メシア、救い主として信じるイエス。決して忘れてはならない。希望を消し去ってはならない。「神はいったいどこにいるのか」と叫び、嘆きたくなる現状に生きていたとしても。イエスによって示された神の約束は、今もなお息づいているのです。

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