お知らせ内容
1月9日 メッセージより
2022年1月9日メッセージ「どちらの側から目を注ぎますか」より
牛田匡牧師
聖書 マルコによる福音書 1章14-20節
今回の聖書の言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」は、「マルコによる福音書」ではイエス様の最初の言葉、第一声となっています。その中にある「悔い改める」という日本語から連想するのは、「やってしまったことを反省し、深く後悔して、心を改める」ということではないかと思いますが、もともとのギリシャ語「メタノイア」の意味は、「視点を移す」です。人は自分がどこに立っているかによって、見えるものが異なります。背が高く立っている大人の人と、まだハイハイをしているような赤ちゃんとでは、見えているものが異なるだけではなく、それこそ生きている世界が異なるとさえ言えるのではないでしょうか。
では「視点を移す」という時に、一体どこに視点を移すのでしょうか。それはイエス様が生き歩まれ、目を注がれた所、つまり社会の中で抑圧され、小さく低くされている人たち、今も痛みの中にいる人たちの所でした。ですので、この「メタノイア」という言葉を、社会の底辺である「低みに立って見直す」という翻訳もあります。「悔い改める」という言葉と「低みに立って見直す」という言葉とでは、全然違う言葉に感じるのではないでしょうか。その後、イエス様は4人の漁師に声をかけられました。「漁師」もまた当時、貧困と被差別に苦しめられていた弱く小さくされていた人たちでした。イエス様はそのような人たちをあえて選んで声をかけられました。「私について来なさい」。彼らはすぐにイエス様についていきました。とはいえ、イエス様に付いて行ったこの4人は、この後もイエス様と行動を共にしながらも、迷わなくなったわけでもなく、悩まなくなったわけでもなく、時にはイエス様を疑い、裏切ることさえありました。それでもイエス様は彼らを赦されました。そのようにして彼らはやがて、イエス様と同じ視点、命の神と同じ所へ目を注ぐ者へと変えられていきました。
私たちは今、どこに誰と一緒にいて、どちらの側から目を注いでいるでしょうか。また命の神の目はどこに注がれているでしょうか。この新型コロナ感染爆発「第6波」の中、具体的な行動として私たちに出来ることは多くないかもしれません。たとえ力は小さくても、神様は「私に付いて来なさい」と言って、ありのままの私たちを豊かに用いてくださいます。神様がいつも共にいて働いて下さることに信頼して、私たちは低みに立って見直す歩みへと導かれていきます。