お知らせ内容
3月13日 メッセージより
2022/03/13(日)
2022年3月13日メッセージ「外に立つ」より
牛田匡牧師
聖書 マルコによる福音書 3章20-30節
先週から、イエス様が十字架に架けられていく道を思い起こす受難節を過ごしています。私たちが「十字架を見上げ」、イエス・キリストの「死と復活を覚える」と言う時、それは十字架に架けられるに至るまでのイエス様の言葉と振る舞いに目を注ぐということと不可分のことであり、真実の命に生きたイエス様の生き様に従って、私たちもまた真実の命を生きようとすることなのではないかと思います。そしてそれは多くの場合、世の価値観から外れている生き方でした。
今回の聖書のお話からは、イエス様が律法学者たちと対立していただけではなく、親しいはずの身内、イエス様のことを理解しているはずの家族からさえも「気が変になっている」と思われていたということが分かります。それ程にイエス様の言葉と振る舞いは、当時の社会常識から外れていたのでしょう。病気のため、悪霊に憑(と)りつかれていて穢(けが)れているから、交わってはいけないと言われている方々と、イエス様は積極的に交わり、その悪霊を追い出しました。実際には、精神的に錯乱状態にあった人たちが、イエス様との交わりの中で落ち着きを取り戻したということだったと考えられますが、その様子を遠巻きに眺める人々からは「あんな人々と接しているあの男もまた悪霊に憑りつかれていて、穢れている」と蔑まれていました。しかし、イエス様はそんな周囲からの評価、世間の中心に近い権力者たちからの非難にも、また親しいはずの身内からの誤解にもめげず、流されず、常識の「外に立つ」ご自身の道を歩まれました。
「上のものが下になり、後のものが先になる」世の価値観を逆転させる神の国の価値観。命の神は誰と共にどこに働いておられるか。常に世間の常識の外とされる場所に立ち、価値がないと見なされていた人々と共に歩まれたイエス様。見えなくされていたものに、目と心を注がれていたその生き様に、私たちも従う者へと変えられていきたいと願います。今、世界中が悲鳴を上げています。ウクライナとロシアで行われている戦争では、たくさんの偽の情報が発信されていますが、多くの人々の血が流され、苦しめられていることは明白です。全世界の人々が核兵器の使用に脅えています。それらは命の神の御心に反することです。剣に対して剣を取るのではなく、非暴力と不服従をもって世界中の人たちが声を上げることを通して、この愚かな戦いが一刻も早く終えられるように祈ると共に、命の神の目が注がれているところ、弱く小さくされ私たちを必要とされている方々の隣に、私たちは今日もイエス様と共に遣わされていきます。