お知らせ内容
5月8日 メッセージより
2022/05/11(水)
2022年5月8日 家族の日礼拝メッセージ「命を捨てる」より
水谷憲牧師
聖書 ヨハネによる福音書 10章 7-16節
観光船の事故、山中からの遺骨発見、そしてウクライナ。心痛む出来事が多く起こっている。今日は「家族の日」、世間的には「母の日」と呼ばれる日。事故や事件、戦争の犠牲者にも家族が、母がある。「代われるものなら自分が代わってあげたい(あげたかった)」といった、心を焼かれるような思いの方々を想う。
イエスは「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」と言う。私たちがキリストという門をくぐった時、私たちは死んだようないのちから生きる喜びにあふれたいのちへと変えていただいた。それは、過去の一回きりの思い出などではない。私たちがキリストという門を通る度に、私たちは「絶望から希望へ」――必ずしも今が絶望というわけでなくとも、心が新たに希望で満たされるような――そんな経験をしてきたし、今もしているのではないか。さらに私たちがキリストという門をくぐる時、私たちは苦難の多いこの地上から永遠のいのちを与えていただける天上へも必ず連れて行っていただけるのだ。申命記28章で神は、もし私たちが神のみ声に聞き従い、戒めを守るならば、私たちはどこにいようと大きく祝福される、と言われるが、キリストは、私たちが神のみ声に聞き従い、戒めを忠実に守ることができていなくても、羊の門であるキリストを通って入るだけで、私たちは死から生、絶望から希望へと救いあげられ、平安が与えられるのだと言うのだ。私はそのために来たのだから、と。
そして、11節と14節には繰り返し「私はよい羊飼いである」というイエスの言葉。これは決して自分を自慢しているわけではなく、イエスのキリストとして・羊飼いとしての決意の現れなのではないか。イエスは「羊のために命を捨てる」と、これも2度繰り返して言っているが、それは「どんなことがあっても、あなたを決して置き去りにはしない」「あなたのためなら命を捨ててもいい」という意味なのだ。
この世のあらゆる宗教においては、愛の教えが説かれている。しかし崇拝の対象である存在、この場合では神が、その命を捨ててまで人を救いに導いた、それほどの愛というものは、このイエス・キリストの十字架の出来事以外にはない。私たちはそのことを誇りにして、「あなたのためなら命も捨てる」と言ってくださるキリストに、これからもまして全てを委ね、苦しい時にも一生懸命すがっていきたい。愛する者の苦しみも、私の悲しみも、キリストは共に引き受けてくださるのだから。