お知らせ内容
5月15日 メッセージより
2022年5月15日メッセージ「はっきり言ってすっきりしない!?」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 ヨハネによる福音書 10章 22-30節
ヨハネ福音書において、独特のイメージと深みを持った、様々な言葉によって彩られるイエス。他者からの呼ばれ方としては、例えば、「神の子(1章49節)」、「イスラエルの王(1章49節)」、「神のもとから来られた教師(3章2節)」、「神の聖者(6章69節)」、「世の救い主(4章42節)」など。自身の呼称としては「命のパン(6章35節;41節;48節;51節)」、「世の光(8章12節、9章5節)」、「門(10章7;9節)」、「良い羊飼い(10章11節;14節)」、「復活と命(11章25節)」、「道であり、真理であり、命(14章6節)」、そして「まことのぶどうの木(15章1節;5節)」。
イエスは、そのいずれにも当てはまる方でありながら、そのどれかだけに特定できる人ではありません。広がりを持った方。人間を含めた「すべてのものより偉大である」(10章29節)神と共に、万物の初めからおられ、天地創造の業をなし、人に命を与え光で導く方です(1章1-18節)。だから、人間が一時的に抱くイメージや人物像からはるかにはみ出て当然。人が抱く一つの見方に収まるはずがありません。それなのに、この場面に登場するユダヤ人たちは、「はっきり言え!お前はメシア(救い主)なのか!!」とイエスに迫りました(10章24節)。「メシア」という一つの窓枠にイエスを押し込めようとしたのです。
その問いに答えた後、イエスは、「誰も、自分と結びつけられた一人一人の存在を、自分から、そして神の手から奪うことはできない」(28-29節要約)と語りました。ここには、固定化される神像、イエス像、あるいは人間像から自由になった者の姿が示されています。流動的で、動きに満ちた自由な方であるイエスを通して、一人ひとりが神と結びつけられ、そして、今度はその神と結びつけられた人たちが、自由な存在として、新しく、「決して渇くことのない永遠の命に至る水」(4章14節)に満ちるダイナミックな関係性を築き上げていく。
世界全体が、日本社会が、わたしたちの住む地域が、様々な理由で閉塞感に満ちている今だからこそ、自分たちのあり方を見つめ直す必要があるように思えます。死からの復活という、人間の常識からすると、あり得ないことを成し遂げ、人間世界のあらゆる束縛を打ち破ったイエスと共に、自分たちがこれまで見てきた景色を変えていく。別の色、別の光、別の形、別の影に彩られ、新しい命に満ちた教会の景色を待ち望みながら。