お知らせ内容
8月21日 メッセージより
2022年8月21日メッセージ「あなたが触れてくれたから」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 エレミヤ書 1章4-10節
生まれる前、母の胎内にいる時から預言者となることが決められている、と神から聞かされたエレミヤは、躊躇の言葉を発しました。「まだ若いから」。できることなら断りたい。ただ単に若いからというだけではなかったことでしょう。エレミヤ書冒頭に記されたプロフィールによると、彼は祭司の家系の人物です。エレミヤ自身、家業を継ぐ覚悟はあったのでしょうが、祭司は預言者ではありません。おそらく、このとき初めて「あなたは預言者として立たされる」と聞き、驚いて当然です。全くの想定外。「若いから」というのは、躊躇ではなく、断固拒否という強い否定の思いの発露だったのかもしれません。
それほどまでに、拒否感を示していたエレミヤでしたが、最終的には神の召しを受け入れました。そして、その後、彼は最後まで預言者として歩み続け、その歩みの足跡が聖書の一部として残されたのです。明確な理由は記されていませんが、エレミヤが神の召しの言葉を受け入れたきっかけの一つは、神がその手で「触れた」からです(9節)。エレミヤの召命の場面において備えられたのは、単純な神の言葉ではありませんでした。言葉だけではなく、神の存在自体が与えられたのです。エレミヤは、自分の身体を通して、身体の感覚を伴って、確かに、神の存在を感じた。神が触れたという確かな感覚、自分の皮膚を通して柔らかく暖かく染み渡る感覚があった。
エレミヤの時代から約600年後、「神の子」として、神の言葉を人々に伝えた人イエス。彼は、自らが、神の言葉でありながら、人と同じ肉を持ち、その肉を通して、人々との身体的交わりの中に生きた人でした。自分の身体を他の人々のもとに近づけ、そして、自分の手で、人々に触れる人でした。イエスが病人に触れると病が癒され、苦しみの中にある人がイエスに触れると穏やかにされ、あるいは幼子がイエスに触れられると祝福を受けたのです。
信仰は単なる言葉ではありません。イエスを、神を信じるということ。それは、わたしたちの日常の1コマ1コマで、わたしたち自身の身体/肉体を通して培われる生き様の上にこそ、成り立つものです。だから、教会、社会、地域、家庭、それぞれの交わりの中で、今一度、触れあうことを忘れないようにしたい。お互いの身体を向き合わせ、目の前にいるあの人の息を感じ、声を聞いて、命の温度を互いに感じあう、そういう時間と場所を大切にしていきたいと願います。