お知らせ内容
10月2日 メッセージより
2022年10月2日 世界聖餐日礼拝メッセージ「愛する裏切り者」より
水谷憲牧師
聖書 マルコによる福音書 14章10-21節
イエス・キリストがエルサレムへ入ってから、イスカリオテのユダの裏切りによっていよいよ逮捕される直前の「過越の食事」、いわゆる「最後の晩餐」の場面。食事中、イエスは言われる。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。この衝撃的な「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉を私たちはどう考えたらいいのか。世の中で「裏切り者」と言えば必ず挙げられるイスカリオテのユダ。ヨーロッパのある国々では子どもにつけてはならない名前に挙げられているという。ユダが死んでからこれまで世界中で受けてきた呪いのようなまなざしを考えると、確かに生まれなかった方がユダのために良かったのかもしれない、と言ってしまいそうになる。
でも仮にイエスがそう言っていたとしても、彼の言葉を私たちが軽々しくそのまま使ってはいけない。最後の晩餐の場面でイエスが言われたあの言葉と、現代の私たちが何か起こる度に薄っぺらい正義感を振りかざし、怒りにまかせて罪人に向けて言ってしまいがちな言葉とは、決定的に文脈が違うはずなのだ。私たちの救い主は、人間のいのちを否定するような方ではないはずだから。神を裏切ったのはユダだけではない。他の弟子たちもみな、イエスを裏切って見捨ててしまった。私たちだってユダを責める資格はあるのか。共に頭を垂れて神に裏切りのゆるしを乞うことしかできないのではないか。しかしイエスは、ユダも含めて、こんな私たちの罪を赦して下さっている。
きっとイエスは、自分のことを心から愛しているのにもかかわらず、のちに裏切らざるを得なくなる一人一人の顔を見渡しながら、出会ってしまったがゆえの悲しみをこう表現されたのではなかったか。「生まれなかった方が、その者のためによかった」。もし私かあなたがこの世に生まれていなければ、あるいは、生まれる時期がもう少し違っていれば…もし私たちが出会っていなければ…あなたたちはみな、平凡ながらもそれなりに幸せな一生を送れたかもしれない。みなが裏切りの苦しみを十字架として背負うこともなかったろうに。この「生まれなかった方が~」というイエスの言葉は、言いつくせない愛と悲しみがこもった、非常に切ない言葉だったように、私には思えるのだ。そしてこの切ない言葉はそのまま、キリストから私たちへの言葉でもある。こんな私たちに対しても惜しみなく注がれる愛を思いながら私たちも、キリストに変わらずついて行けたらと思う。