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10月23日 メッセージより

2022/10/25(火)

2022年10月23日 収穫感謝礼拝(降誕前第9主日礼拝)

メッセージ「神の業の現れるところ」                                   牛田匡牧師

聖書 使徒言行録 148-18

 今回のお話は、足の不自由な男が癒されて立ち上がり、それを見た町の人々が驚いてパウロとバルナバを神々の化身だと思い込み、いけにえを献げようとしたというお話でした。まず気になるのは「彼に癒やされるのにふさわしい信仰があるのを認めた」(9)という言葉ですが、これは直訳すると「彼には救われたいという信頼があったことが、パウロには伝わった」ということです。ですから、彼の信仰が多く、合格点に達していたということではありません。そもそも他人の信仰が多いか少ないかなど判断することはできませんし、イエス様に従った弟子たちでさえも、「あなたたちにはからし種一粒ほどの信仰もない」(マタイ1720)と言われていた程でした。「生まれつき足が悪かった」ということは、当時の古代社会では「生まれる前から罪の中にいる。神から見放された、ケガレた存在」と理解されていました。そのために彼自身も自分のことを「私は人前に出てはいけない、神様から見放されたケガレた存在だ」と思い込み、差別を内面化してしまっていたのではないかと思います。

 そうなると何もかもが「どうせ駄目だ」「何をしても無駄だ」となってしまい、「救われたい」「ここから解放されたい」という思いすら沸いて来なくなります。今年は「全国水平社宣言」100周年の年ですが、あの宣言も多くの被差別民たちに、差別を自分たち自身が内面化してしまっていた所から、「我々自身を誇り得る時が来た」「立ち上がれ」と訴えかけた宣言でした。この足の癒された男も、パウロの話を聞きながら「罪の中に生まれ落ちた私も、確かに救われたい。生きていていい命として今までの状態から抜け出したい」と心底願ったのでしょう。それは旧来の絶望から、希望に向かって180度方向転換した出来事であり、彼にとっては躍り上がるくらいの大きな立ち上がりの出来事でした。

 ですから、パウロが特別な超能力を使って、彼を癒したのではありませんでした。神の業が現れるところ、それは何か特別な所で超能力として現れるのではなく、私たちの身近な所に現れ働かれます。私たちが「何をしたか/していないか」「何が出来たか/出来ていないか」を遥かに超えて、大いなる恵みを下さっているのが、神様です。現実生活の中では、誰もが多くの困難や課題と共にあります。その中でも神様が共にいて下さるので自分は立ち上がることができる、生きることが許されている、救われていい命なんだということに信頼して、小さな一歩を歩み出していくように、私たちは今日も招かれて参ります。

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