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10月30日 メッセージより

2022/11/01(火)

2022年10月30日メッセージ「きみはその幻を見たか」より

岡嶋千宙伝道師

聖書 ハバクク書 1章1-4節、214

 「信仰によって生きる」(2:4)。後に、パウロがローマとガラテヤの信徒へ宛てた手紙の中で引用し、「信仰義認」という思想を展開させる基盤ともなった言葉。キリスト教の歴史において、最も良く知られている言葉の一つだろう。だけど、新種のウィルスによる感染拡大、なくならない紛争、不安定な経済、止まらない気候変動、などが原因で、社会のいたるところに閉塞感が満ち、誰もがこれからを描くことのできない現代にあって、「信仰によって生きる」と言われても、物足りない気がしてくる。響きが良いだけで、中身のない空虚な言葉。そもそも、信仰って何? その信仰によって生きるってどういうこと? それによって、本当に、この閉塞感が、苦しみが、解消されるの?

 神がこの言葉をハバククに伝えたのは、挑発とも言える彼の訴えを2度にわたって受けた後だった。「暴虐」「災い」「労苦」「破壊」「争い」「いさかい」という言葉で、自分が生きる時代を言い表したハバクク。彼が生きたのは、現代と同じく、閉塞感に溢れていた社会だった。苦しみにあえぐ人々。悲惨な時代に生き、多くの人の苦しみを目撃していたハバククは、神に向かって、不満と不平、そして怒りに満ちた思いを投げつける。「一体いつまでこの状況を放っておくのか。今このとき、あなたが何を語り、何をするのか。わたしは納得できるまで、この目でしっかりと見届けてやる」。

 神への挑発とも思えるハバククの言葉は、一見すると「信仰」という言葉で示されることとは真逆のもの。でも、実は、それこそが、信仰に生きることではないだろうか。神の言葉を単純に受け入れるのでも、これまでの伝統、神学、教理、あるいは教則を、何の反省もなく受け取るのでもない。むしろ、自分の感覚で、それまでの伝統や宗教規則を、さらに、それらによって伝えられる神の姿ですら、疑い、問い直す。現状に甘んじるのではなく、不格好でも、行儀悪くてもよいから、問いを発し、状況を変えるための一歩を踏み出す。誰かに言われた神を求めるのではなく、自分が出会った神と向き合い、語り合い、ぶつかっていく。それが信仰。そして、その信仰に生きるために備えられたのが教会という場。容易で安直な答え、使い古されて命を与えることのなくなった答えはいらない。変化に富み、命に満ち、様々な異なりを良しとするあり方。これからも、教会で、そして、現実の世界で、その信仰に生きる歩みをなしていきたい。

 

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