お知らせ内容
11月6日 メッセージより
2022年11月6日 召天者記念礼拝メッセージ「天国のことは天国で」より
水谷憲牧師
聖書 ルカによる福音書 20章27-40節
「死後の世界」「私たちは死んだらどこへ行き、どうなるのか」という謎は、私たちの大きな関心事である。ファリサイ派の人々はその謎を解明しようとして、死んだ人は復活の時に服を着ているのか裸なのか、服は死んだ時の物か新しい物か、体の欠陥はそのままなのか、どこで復活するのか、などと議論していたという。「気になるのそこなん?」まぁそれも復活を確信していたからこそか。それに対しサドカイ派の人々は、復活を全面的に否定していた。彼らは口伝えの律法や慣習ではなく、「モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)」のみを絶対としており、そのモーセが復活について何も語っていなかったからだ。彼らはそのモーセの「兄が子をもうけずに死んだ場合、弟は兄嫁と結婚して兄の跡継ぎをもうけねばならない」という律法を引用して、イエスに「七人の兄弟を次々に夫にした女性は、復活の際に誰の妻になるのか」というややこしい質問をした。マタイやマルコ福音書の同じ話の箇所では、その質問を受けてイエスはまずこう言う。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。
この世における常識を天国に持ち込むことが思い違いなのかもしれない。復活とは、死んだ体が再び息を吹き返すことでも天国でこの世の生活の延長を永遠に生きるということでもない。私たちの知る結婚生活や家族としての生活ではない、私たちの想像を超えた関係性によるものなのだろう。そう考えると、確かに少々さみしい。しかし確実なのは、私たちがいつかこの世の歩みを終えて天国へ招かれた時、私たちは先に召されていた愛する人たちと再び笑顔で会うことが必ずできるということ。私たちが天国でみんなと一体どのような姿で再会するのかは、今は分からないが、もう地上では会えなくなってしまっていた大切な人と必ず再会し、永遠の時をお互いに慈しみあいながら歩んでいくことは確かに約束されているのだ。天の国に招かれた後のことは天の国に招かれれば分かる。「明日のことを思い患うな」とイエスも言われる。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。もうすぐクリスマス。キリストがこの世に誕生したのは、この地上に生きる私たちのためだった。まず私たちが考えるべきは、私たちが神に与えられた命をどんな風に燃やして生きていくかなのだ。