お知らせ内容
11月20日 メッセージより
2022年11月20日 メッセージ「正しい若枝」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 エレミヤ書 23章1-6節
「災いあれ」(23:1)。国を統治し、国民を保護する責任のある王や国政の担い手たちに向けて神が放った言葉。「牧者」と呼ばれるその者たちは、自己の利益追求のために国民を虐げ、搾取し、殺害することすらあった(22:3, 13, 17)。神は、そんな牧者ではなく、その者たちによって「滅ぼされ」(23:1)「散らされ」(23:1-2)「追い払われ」「省みられなかった」(23:2)人々にこそ目を注ぐ。社会の中で弱くされ、力を奪われた人々を「私の民」「私の羊の群れ」(23:1-2)と呼ぶ神は、彼女らが「二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない」(23:4)ように、新しい牧者を立てると約束する。その牧者、「正しい若枝」は、これまでの指導者たちとは異なり、この地に「公正と正義」(23:5)をもたらし、その若枝のもとで、人々は「安らかに暮らす」(23:6)ようになる。
弱くされた人たちの間に備えられるその若枝は、それ自体が弱き存在なのだろう。木の幹ではなくて「枝」であり、しかも「若い」のだから。その枝を備えるのは、神ご自身だけれども、その成長に関わるのは、神だけではない。そこには、人間の介在が求められ、一人ひとりが問いかけられている。正しい若枝を与えられるわたしたちが、どう生きていくのか。その枝と、その枝のもとで生きる他の人たちと、他の存在たちとどう関わり、生きていくのか。そして、その枝が根を下ろすこの土地、この地球、この世界とどう関わっていくのか。
「これが神の求める正しさだ」と言って、自分の思い描くあり方に固執することは、神の問いかけに応えることにはならない。むしろ、その問いを受けて、逆に、あるいは、さらに「正しさ」とは何か、「公正さ」とは何かを問うていく。今ある正しさから漏れている人はいないだろうか。人が一時的に打ち立てた「公正さ」によって、傷つき苦しむ人はいないだろうか。もちろん、一人ひとりに、自分なりの生きる場があって、その場を生きやすいものにすることは咎められることではない。でも、その場だけを何とかしようとすればするほど、それ以外が見えなくなってしまう。今、この場を精一杯に生きるそのあり方が、他の場所、他の時に生きる誰かを傷つけているかもしれない。その人たちの生活を、命を蝕んでいるかもしれない。だから、時に立ち止まり、自分の生きる場から離れ、見回してみる。耳を傾けてみる。肌で感じてみる。消されようとする声、蔑ろにされそうになっている命、忘れられようとしている痛み。忘れない。忘れてはならない。神によって備えられる正しい若枝が、これからも正しい存在として、わたしたちの間に、この地に、公正と正義をもたらし続けていくために。