お知らせ内容
12月11日 第3アドベント礼拝メッセージより
2022年12月11日メッセージ「聖なる者とされる」より
水谷憲牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16-24節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。喜びと祈りと感謝というこの3つは、私たちの日常生活の原動力として互いに補い合い、連鎖的に働く。しかし、災いに襲われても私たちは感謝しなければいけないのか。嘆き・怒り・悲しみこそすれ、感謝の心など生まれまいに。いかし、神はいきなり誰にでもそんな無理なことを求めているわけではなかった。それは、私たちがキリストにつながっているからこそだったのだ。
その私たちの主イエス・キリストは、神の独り子でありながら「神に見捨てられる」経験をされた。そのキリストが、私たちの嘆きの心・怒りに燃える心・悲しみの心を知らないはずがない。そのキリストにすがり付いていく時に、私たちは自分をとりまく全てのことを、試練や災いをも含めて感謝することが、きっと出来るようになっていくのではないか。無理してすべてに感謝しようとせずとも、苦しい試練にあって「神様助けて下さい」と必死に祈る時、神は必ず人を遣わして下さる。共に寄り添い苦しんで、祈ってくれる人を与えて下さる。自分は独りではなかったのだと気付かせて下さる。そのような体験を通して、与えられた試練が実はただの試練ではなく、恵みでもあったのだと気付かされることで、新たな感謝や喜びが生まれてゆくのだ、きっと。悲しい時にもキリストは、私たちの喜べない心・感謝できない気持ちをちゃんと汲み取って下さり、喜び・祈り・感謝へと導く助けの御手を、キリスト自身苦しんだ十字架の上から差し伸べて下さるのだ。
今の世にあっても、神の御心は、来たるべきキリストの再臨にあたり、私たちが聖なる者・非の打ちどころのない者となることにある。「非の打ちどころのない者」とは言っても、完全な人間になることは無理なので、私たちはキリストの来られる時、せめて「特に非難するところもない者」としてお迎えすることができるように歩んでゆきたい。自分の努力には限界がある。喜べ、感謝せよといわれても出来ないときはある。そんな時は、「喜べません神様、感謝なんてできません、苦しい、助けて下さい」と正直に祈り、私たちの痛みを知るキリストによりすがろう。そして、神様からの様々な恵みを感じることのできる感覚を養っておこう。そうする中で、私たちは喜びと祈りと感謝からなる生活へと導かれ、「特に非難するところもない者」としてもらえるのだ。クリスマスを前にして、私たちは今一度、聖なる者と「される」ために、謙虚に神と向かい合いたい。