お知らせ内容
12月25日 クリスマス礼拝メッセージより
2022年12月25日 クリスマス(降誕日)礼拝メッセージ「クリスマス・プレゼントは誰に」より
水谷憲牧師
聖書 創世記 1章1-5節、ヨハネによる福音書1章1-9節
こども園でクリスマスの話をした。小さくて力のない子どもたち、クリスマスはあなたたちが一番に大切にされる日、うれしいよねと。しかしクリスマスは貧しくて、力なく、小さく弱い人たちに真っ先に神からの恵みが注がれる日と考えた時、私たちのうちの良心的な人は「経済的・社会的にも比較的に恵まれている私たち、クリスマスは私たちのための日ではない、もっと恵まれるべき人々がいるから」と考えつつ、ちょっぴり寂しい思いをしてはいないか。正義感の強い人は「罪を犯して反省の色もない犯罪者や大規模な戦争を起こした指導者、下々の苦しみを理解しない政治家や権力者たち、クリスマスの意味を履き違えてお祭り騒ぎをしている人々、クリスマスはあんな奴らのための日ではない」と腹立たしく思ってはいないか。
確かにクリスマスは、貧しく小さく弱くされている者のために神が救い主を送ってくださった日。しかし、神は恵みを注ぐ相手を選別されるのか。「貧しい」「豊か」、「力がある」「力がない」の境界線はどこにあるのか。果たして人間はそんな風に線引きできるものなのか。悩みや痛みを持たぬ人など、この世にいるのか。弱みを決して見せようとしない人はいても、弱い部分がない人などおるまい。先になるか後になるかはともかく、サンタのプレゼントに象徴される神の恵みは、どんな者であっても贈られるものなのではないか。
世界の初めにおいて、神は「光あれ」と言われた。光は、当たる側が光を逃れることがない限り、平等に当てられる。キリストというまことの光も、貧しいマリアとヨセフ、羊飼い、外国人の博士たちから始まり、全世界を照らしてゆくのだ。だから、神の恵み=クリスマス・プレゼントは、もらえるかもらえないかではなく、どこから先にもらえるかという問題なのだ。心配しなくていい。私たちの所にも、必ずサンタはプレゼントを届けてくれているはず。私たちが自分でもらえないと決めつけ、気付いていないだけかもしれない。腹は立つけど、プーチンだってリア充のパリピだって。彼らが気付かない可能性は高い。でも神はそういう方。こんな私たちの所にもサンタを送って下さる神の平等な愛に改めて感謝し、あらゆる隣人と共にこのクリスマスを喜びたい。メリー・クリスマス。うれしいね。