お知らせ内容
1月22日 メッセージより
2023年1月22日メッセージ「大いなる光」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 イザヤ書 9章1-4節
北はアッシリア、南はエジプト。二つの大国に挟まれ、両国からの軍事圧力により疲弊していた古代イスラエル王国。「苦難と闇、苦悩に満ちた暗黒、追放の暗闇」(イザヤ8:22)のなかに生きていた人々。心の隅まで闇に覆われていたその時代に響いた神の言葉「闇の中に光が輝く」(9:1)。状況は変わる。劇的に。「追放」されて、誰もいなくなった土地に、再び人々が住まい、彼女らの「苦難」や「苦労」は「喜び」と「躍り」に変わる。
「戦利品」(9:2)「兵士の靴」「血にまみれた服」(9:4)という表現からは、神が約束する光のもとでの変化は、軍事力・武力・物理的な威力によってもたらされるような印象を受ける。だが、神が約束するのは、軍事的な勝利や、武力による変革ではない。「兵士の靴」も「血にまみれた服」も、「すべて焼かれ(セルファー)、火の餌食となる」。イザヤが預言者として立てられたとき、神からの召しを伝えたセラフィムが触れたのは、イザヤの口だった。武器や武具などと結び付き、物理的な力で攻撃を与えうる腕や手、脚や足ではなく、直接に物理的な力を生み出すことのない口。神が選ぶのは、その口から出る言葉。
ヨハネ福音書は、この世に生まれた神の子イエスを「肉となった神の言(葉)」と証しする。そして、ヨハネだけではなく、マルコ・マタイ・ルカも、そのイエスが、武力でも、軍事力でも、物理的な力や強さでもなく、言葉によって、当時の、そしてその後の世界に劇的な変化をもたらしたと伝える。自身が言(葉)であり、言葉によって人を、社会を、人類の歩みを変えたイエスの目と心には、社会で声をあげることができずに、人としての命を生きることすらできない人たち、外国の女性、病や障害を持つ人、嫌われた職を担っていた人、幼い子どもの姿があった。
この世が闇になるのか、それとも光になるのか。死の陰に覆われるのか、光が差し込むのか。その差は、今、この瞬間に響く一つ一つの言葉の積み重ねによって生み出されるものかもしれない。出会った一人一人と関わり続け、そばにいる人たち、特に、社会の中で存在を消されている人たちの言葉を聴き、そして、自らが一つ一つの言葉を丁寧に紡ぐことで、変化をもたらしたイエスに倣う。人を傷つけ排除するためではなく、人を生かし、希望を与え、すべての人を闇から解放する光の言葉を紡ぐ者でありたい。