お知らせ内容
1月29日 メッセージより
2023年1月29日 河内地区有志教会講壇交換礼拝
メッセージ「生きる時も死ぬ時も」より 浅見覚牧師(枚岡教会)
聖書 ローマの信徒への手紙 14章7-9節
久宝教会の教会員お一人お一人について、聖書から知らされていることがある。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」みなさんは、キリストのものとされている。
問いと答の形式で信仰を学ぶ小冊子『ハイデルベルク信仰問答』は、第一問で「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問いかける。人は、生きる時だけでなく死ぬ時もある。だから、生きている時だけでなく、死ぬ時にも慰めとなり、支えとなるものが必要である。この問いへの答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」である。教会はこの冊子を用いて、信仰者はどんな時もキリストのものあることが、唯一の最大の慰めであると教えてきた。信仰者はこれを信じるゆえ、生きる時も死ぬ時も慰められ、勇気づけられ、平安を手にする。「生きるにも死ぬにも、あなたはキリストのものだ。キリストが、ご自分のものとして、あなたをしっかりと抱えてくださる。あなたは、そのことに慰めを得て、力を受けて、希望を持って生きられる。たとえ、死を身近に感じても心配しなくて良い。死を待つその時もキリストのものだ。キリストは、あなたを放さない。死に引き渡さない。」聖書はそう語りかけてくる。
間違えてはいけないのは、キリストが私を自分のものとしてくださっている、ということである。だからこそ慰めとなる。私がキリストを知り、信じ、キリストに従うことは、喜びであり、充実した信仰生活となる。しかし、そういう時ばかりではない。私たちには、信仰の不調もある。信仰の灯が消えそうな時もある。病床で苦しくて祈ることができない時もある。歳を重ねるとキリストを忘れることもあり得る。死を迎えた時には、自分では何もできない。自分のキリストに対する態度は頼りにならない。けれども、キリストが私を自分のものにしてくださった。キリストが私を離さない。だからこそ確かな慰めとなる。私がどんなに弱り、何もできなくなり、キリストに向くことさえできなくなっても、キリストのものとされていることは変わらない。私たちが死ぬ時も、キリストがしっかり抱き続ける。復活したキリストが死を蹴散らし、私を抱えて神の国へ連れて行ってくれるのである。それを知る信仰者は幸いである。