お知らせ内容
2月5日 メッセージより
2023年2月5日 メッセージ「聞く耳を持つ」より
水谷憲牧師
聖書 ルカによる福音書 8章4-8節
今日の聖書は「種をまく人のたとえ」。「種をまく人」は神様、まかれている種は神の御言葉。そして、種がまかれた先は、御言葉を受け止める私たちの心。そんな理解を踏まえ、この話は2つのことを私たちに語っているように思える。一つは、種をまく神の姿について。この「種をまく人」は、非常に効率の悪い種の蒔き方をしている。道端だろうが岩の上だろうがおかまいなし。その結果、種の多くは、踏まれたり食べられたり枯れてしまったり。もったいない。しかし、その要領の悪い農夫のように、神は私たちの心がどんな状態であれ、御言葉という種をあきらめることなく、粘り強く、おしみなくまき続けるのだ。確かに神の御言葉など、悪条件にはてんで弱いものだが、だいたい耕しも手入れもせずに、最初から豊かな良い土地なんてそんなにありはしないから、自分の心が全然いい土地ではないなどと気に病む必要は全くない。神の私たちに対する忍耐と信頼・希望を思う。
もう一つは、神の似姿として造られた私たちは、種まかれた者であると同時に種をまく存在でもある、ということ。日常の小さな積み重ね・地道な働きに無力さや疲れを感じる時にこそ、私たちはこの種まきの農夫のようでなくてはならない。無駄な労力を恐れるな。芽を出したのがほんの一部でしかなかったとしても、そこにこそ喜びと希望を見出そう。イエスも、効率重視・無駄な時間や労力を省く人だったなら、私たちのために十字架にかかることなどされなかっただろう。正しい人のみを天国に招き入れ、しょーもない私たちを救うことなどなかっただろう。
イエスは最後に「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われた。私たちはどうすれば「聞く耳のある者」になれるのか。私たちは、相手を理解しようとする努力なしに、自分の考えこそが正しい、あいつらが間違っているという思い込みで心を一杯にしてはいないか。他人の考えをこれ以上受け付けることができないほどに、心が自分の思いで一杯になっていないか。私たちは、日々謙虚に振り返ってみる必要がある。受け入れたくない言葉・耳が痛い言葉であっても、それを聞くことのできるくらいは、心の器を空けておきたい。私たちは、粘り強く御言葉をまき続けておられる神の思いに応えるため、謙虚に耳を開いて「聞く耳のある者」になり、「こんなことは無駄だ」という思いと戦ったキリストの足跡をなぞって、私たち自身もあきらめずに種をまき続ける者となっていきたい。