お知らせ内容
3月12日 メッセージより
2023年3月12日メッセージ「岩を打つ。水が出る。」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 出エジプト記 17章 1-7節
「出エジプト記」全体を眺めてみると、書の前半、今回の場面に至るまでの物語では水が溢れていることに気づかされる。ナイル川の水、ミディアン地方の井戸の水、ナイル川から派生する水路の水、葦の海の水、雨や雹に姿を変えた水、さらにはその雨や雹が地上に降りて作った水溜まりの水にいたるまで。変幻自在に姿を変え、あらゆるところに姿を現す水は、時に人を癒やし、清め、匿い、人にとっての休息の場、出会いの場となる。かと思えば、全く逆の性格を見せることも。人の生活必需品を破壊し、人に危害を加える生き物や物質を産み出したり、さらには、人を死に至らせることも。そんな水が、岩から出てくる。杖によって叩かれた岩から。人々の渇きを癒やし、命を繋ぎ止める飲み水として。流れるものと留まるもの。柔らかいものと硬いもの。杖と岩と水。ほとんど共通点のない3つが交わったところに、人々に救いをもたらす状況が整えられた。
わたしたちは、気づいていないだけなのかもしれない。「水が欲しいなら、杖で岩を叩けばよい」なんて、いわゆる「ふつうの感覚」では、誰も思いつかない。にもかかわらず、そこに奇跡は訪れた。いや、奇跡はすでにそこにあった。わたしたちが気づかないだけで、だからこそ、神は気づいてほしいと願い、この奇跡を人々の前に示したのではないだろうか。「とても良い」世界の中で、その世界に生きる一つの存在であるわたしたち一人一人が、この世界のただ中にすでに備えられている、神の奇跡に気づいていく。
水と言えば、ヨハネ福音書のイエスは水と共にある。婚礼の場で水をぶどう酒に変えたり(ヨハネ福音書2章)、サマリアの町にある井戸のそばで外国の女性と語り合ったり(同4章)。そのイエスは、自分自身を「生きた水」(同4:10)と呼んでいた。さらに、自分を受け入れ信じた人の内に「生きた水が川となって流れる」(同7:38)とも語っている。もう一度「出エジプト記」に戻って、今回の箇所をよーく読んでみると、モーセが杖で岩を叩き、その岩から水が出てきたあと、人々が実際にその水を飲んだ、とは記されていない。もちろん、飲んだ後に、どんな反応を示したかについても。この欠落、聖書の無言は、逆に、何も伝えないからこそ、わたしたちに強く語りかけているように思える。あなたは、その水を飲みますか? 生きた水であるイエスを受け入れますか? そして、その水、イエスを受け入れたあと、どう生きていますか? どう生きていきますか? すぐそこにある神の奇跡に、気づいていますか?