お知らせ内容
4月2日 メッセージより
2023年4月2日 棕梠の主日礼拝メッセージ「痛みの行く末」より
岡嶋千宙伝道師
聖書 イザヤ書 50章4-9節
「苦しみのなかで痛みを負っていても、苦難に耐え、神の救いを信じて歩もう」。福音書に収められたイエスの言葉(例.マタイ5:39)、あるいはパウロの手紙の言葉(例.ロマ5:3-5)とあいまって、本日の御言葉からは、そんな「キリスト教っぽい」メッセージが響いてきそうだ。けれど、少し立ち止まって考えてみたい。この言葉が語られた背景。そして、この言葉を発している人物の人となり。時代はバビロン捕囚の後期。祖国を失い、見知らぬ国での生活を強いられていた人々を前に、言葉を発した語り手は、見ていた、知っていた、聴いていた。当時の社会で、弱く、貧しく、小さくされていた人たちの存在を、声を、苦しみを。9節の後半には、聞き手に対する警告の意味合いを持つ言葉が記されているが、それが警告としてインパクトを持つのは、当時、その状況にあった人たちが実際にいたということだろう。「衣のように擦り切れ、虫が食い尽くした」。それは、痛みを抱えながら、逆らいたくても逆らえず、退きたくても退けず、差し出したくないけれども差し出さざるをえず、これ以上耐えることができないけれども耐えざるをえない、そんな苦しみのなかを生きていた、弱く貧しくされた人たちの現実の姿。
語り手は単に見て知っていただけではない。その人自身が、弱く貧しくされた一人だった。イザヤ書の別の箇所で記される語り手の人物像。「その姿は損なわれ、人のようではなく、姿形は人の子らとは違っていた」(52:14)。「軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され」(53:3)ていた。その人物が、自分と同じ境遇で苦しむ者たちの声を受けて、そのまなざしに見つめられて、言葉を紡ぐ。「我々は共に立とう。主なる神が助けてくださる。その方が近くにいる」
神の救いは、持てる人、余裕のある人、強さに満ち溢れた人たちの側からもたらされるものではない。弱く貧しくされた人たちの側から、その声が、姿が、命の輝きが満ちる場所から、救いの道が開かれていく。その道は、すでに開かれている。人となった神の子イエス。当時の社会で最も小さくされ、苦しみの中に生きる者たちと共にあったイエス。自らも苦しみと痛みを負い、十字架の重みを背負ったイエス。今、このとき、この場所で、イエスの声と言葉と共に、社会の中で、世界の中で、小さく、弱く貧しくされている人たちの声と言葉が響いている。その声と言葉、届いているだろうか。受けて止めているだろうか。応えているだろうか。イエスによって開かれた救いの道、共に歩んでいきたい。