お知らせ内容
4月9日 イースター礼拝メッセージより
2023年4月9日 イースター礼拝メッセージ「前向きに生きる」より
牛田匡牧師
聖書 ヨハネによる福音書 20章 1-18節
突然の災害や事故、病気、親しい人との別れなど、予期しない大きな困難や悲しみに遭遇する時、その困難や喪失が大きい程、私たちは希望を見失い、絶望に打ちひしがれて、顔をあげられなくなることがあります。現実を直視することができず、今後のことなんて何も考えられなくなることもあります。イエス様の弟子たちもそうでした。イエス様を慕って行動を共にしていた彼ら、彼女たちは、その大切なイエス様を十字架刑によって失ってしまいました。そして安息日を目前にして、大急ぎで遺体を墓に納め、安息日が明けると夜明けとともに、墓に急いで行きました。しかし、そこで彼女たちが目にしたのは、空になった墓でした。誰かによって遺体まで盗み出されてしまったのか。悲嘆に暮れる彼女の前に現れたのは、死から引き起こされた(復活させられた)イエス様でした。しかも、その姿は生前に共に旅をしたイエス様ではなく、墓穴を掘り、遺体を移動させたり、安置したりするという、「死の穢れ」に触れる被差別の労働者でした。まさかあのイエス様がそんな人だとは思えないという姿で、復活のイエス様は確かに現れました。
復活のイエス様は、泣いていたマグダラのマリアの後ろから話しかけられました。またイエス様が処刑されたように、自分たちも捕らえられるかもしれないと、先行きを案じて家の中に鍵をかけて閉じこもっていた男たちの真ん中にも、復活のイエス様は施錠された扉という障壁を乗り越えて現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました(20:19)。私たちがたとえ過去の思い出ばかりに目を向けていたとしても、目の前の現実を直視できていなかったとしても、その人の顔が向いている方向、それが「前向き」であることには変わりはありません。以前に聞いた話ですが、「顔を向けている方向が『前』なのだから、たとえ前後左右どちらを向いても、『前向きに生きている』ことに違いはない」のです。私たちが後ろを向こうが、下を向こうが、イエス様はいつでもどこでも共におられます。だからこそ、私たちはいつでも「前向きに生きる」ことができているのでしょう。復活のイエス様は、まさかそんな所にいるはずがない、そんな人として現れるはずがない、と私たちが思うような所に、すでに私たちの予想を越える形で現れて来られています。死で終わらない復活の命を生きるイエス様と共にあって、私たちは今日もそれぞれの場にあって「前向きに生きる」道へと、導かれていきます。