お知らせ内容
4月16日 礼拝メッセージより
2023年4月16日 礼拝メッセージ「なぜ暗い顔で?」より
水谷憲牧師
聖書 ヨハネによる福音書 24章 13-35節
キリストが復活した日、2人の弟子がエマオという村に向かって歩きながら、イエスの受難や十字架での死、その後の不思議な出来事について話し合っていた。彼らはイエスを失ったことで、非常に落胆していた。彼らにとって、イエスの十字架の死はローマからのイスラエル解放の夢が砕かれた空しさそのものだった。そんな彼らに、イエスご自身が近づいて来られたという。これは恵みだ。どういう理解であれ、私たちがイエスを思い出し語り合う時、キリストは自分のことが話されている所に必ず来て下さり、その話をじっと聞いて下さる。そして私たちを疑いから信仰へ、失望から希望へ、悲しみから慰めへ、喜びへと導き戻して下さるのだ。
しかし、彼らはそれがキリストだと気づかなかった。過去を振り返ったまま固まり、心が鈍くなっていたのだ。「イエスは生きておられる」という言葉を彼らも伝え聞いているはずなのに、本気で信じようとしていないから、いくらすばらしい知らせを聞いても、そんなはずはないと思って暗い顔で立ち止まってしまう。聖書の約束は、希望のないところに希望を与えてくれるものであるはずだ。私たちの問題も同様に、聖書の約束を、希望を持って信じきれないところにあるのではないか。私たちが疑い迷いの中にあろうと、イエス・キリストのことを思い出し語り合うところには、キリストは必ず近寄って来て下さる。私たちがイエス・キリストのことを心から捨て去ることのない限り、キリストも私たちをみなしごにされることはない。この聖書において力強く証されている約束を固く信じて歩んでいきたい。
エマオの家で彼らは食事を共にする。食事の席で、彼らははじめてその方がイエスであることに気付く。生前のイエスとのふれあいを再び体験することで、はっと気付いたのだ。その瞬間、イエスの姿は見えなくなってしまう。なぜか。それは、この2人の弟子たち、あるいは私たちが、イエスが復活してまさに「生きて」おられるのだということを本当に理解したとき、もうイエスの姿が見えるとか見えないなどということは問題ではなくなるのだ、ということを示しているからではないか。キリストは復活された。今も生きて私たちのそばにいて下さっている。キリストの復活を知らされている私たちは、もはや暗い顔をする必要はないのだ。