お知らせ内容
6月11日 メッセージより
2023年6月11日メッセージ「捕まって自由となる」より
水谷憲牧師
聖書 使徒言行録 2章 37-47節
「クリスチャンになる」ということは、世間的にはどうも自ら不自由になることを選択するようなイメージがあるのかもしれない。本当にそうなら私だって嫌だし、クリスチャン人口も増えるわけがないだろう。もう少し楽しげにクリスチャンライフを送るべきか。
ペンテコステの日にペトロが人々に向かって語った「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という話。人々はこれを聞いて「大いに心を打たれた」というが、これは「強く心を刺された」とも訳される。「グサー!」このペトロの言葉は私たちに向けられたものでもある。誰かを押さえつけ、またないがしろにし、あるいは誰かの痛みに目をつむってしまった経験。その「誰か」とは、別の姿をとって私たちの前に立つキリストだったかもしれないのに。イエスを見殺しにしたのは私たちなのだ。そしてペトロは「悔い改めなさい」と言う。「悔い改める」とは「これまでの生き方を変える」ということ。洗礼はその延長上。これまでのしょーもない自分から、「新しい自分に生まれ変わりたい!」という積極的な決意表明。新しいいのちをいただき、本当の自由を教えていただくのだからちっとも窮屈ではない。
「信者たちは全ての物を共有にし、神殿に参り、一緒に食事をし、神を賛美して、民衆全体から好意をよせられた」ともある。「物を共有する」とは、相手を思いやるということ。「神殿に参り、神を賛美する」とは、感謝する心。私たちに与えられた福音を、私たちがそうやって分かち合い広げてゆく中で、人はひきつけられ、イエスに従う私たちの群れも神の国もきっと広がって行くはずなのだ。キリスト教界でも残念ながら、不自由な構造はまだあるものの、私たちはイエス・キリストを通じて神に捕らえられることによって、自分を縛っていた様々な囚われから解放されて自由になれるはずなのだ。神の私たちに対するメッセージを聖書に聴くこと、そして相互の交わり、食事を共にすること、神様に祈ることなどを大事にしていきながら、自由に生きる私たちの姿を見て「私もイエス様について行ってあの人みたいになりたいな」と、子どもたちにも思ってもらえるような人になっていきたい。