お知らせ内容
7月9日 メッセージより
2023年7月16日 久宝教会 メッセージ「たくさん赦してもらったから」より
牛田匡牧師
聖書 ルカによる福音書 7章 36-50節
今回のお話は、ある女性が食事の席でイエス様の足を自分の髪の毛で拭い、香油を塗ったというお話でした。その女性は罪深く関わりを持ってはいけないと見なされていたので、周りの人はその女性を非難しましたが、イエス様はその女性を高く評価しました。罪人に触れたり、関わったりすると、その相手から穢れ、不浄が移って、自分までも穢れてしまうと考えられていた時代でしたが、イエス様は彼女を非難した人たちに対して、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさ(足を拭い、香油を塗った行為)で分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ここで「赦す」と訳されている語の元々の意味は、「帳消しにする」という意味ではなく、「そのまま行かせる」という意味です。またここでは過去形のように訳されていますが、正しくは完了形ですから、もう既に「赦されている」「そのまま行って大丈夫」と訳す方が適切です。この女性がイエス様に愛の行為、感謝の行為をしたから、その結果として罪を赦してもらったのではなく、先に既にたくさん赦してもらっていると感じられたからこそ、彼女はイエス様に対して感謝の気持ちで接することが出来たのではないかと思います。
周りの人から「罪深い人だ」と後ろ指を指され続けていたこの女性は、自分自身のことをどのように受け止め、理解していたでしょうか。きっと人から言われる以上に、自分自身のことが嫌いで、憎くて、情けなかったのではないか、一旦外れてしまった道から戻ることが出来なくて、もがき苦しんでいたのではないかと想像します。しかし、イエス様が行く先々で、苦しんでいる人たちに、「大丈夫。あなたもそのままで、価値のある存在、価値のある命ですよ」と声をかけられ、宣言され続けているのを伝え聞き、彼女自身も救われた思いがしたのでしょう。だからこそ、彼女はいても立ってもいられなくなって、イエス様を訪ねて来たのだろうと思います。私たちは日々に多くの恵みを頂き、たくさん赦してもらっているからこそ、謙虚に神様に感謝したり、隣の人を大切にしたりすることが出来るのだと思います。自分の力では人を大切にすることなんて覚束ない私たちですが、そんな私たちが今日も命を与えられて、生かされているということ、それ自体がたくさんの赦し、たくさんの恵みであることを心に留めて、安心の内に、また一日の歩みを進めて参ります。