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8月13日 メッセージより

2023/08/14(月)

2023年8月13日メッセージ「〇〇は忘れたころに」より

水谷憲牧師

聖書 ルカによる福音書 12章 35-48節

 この世の終わりとキリストの再臨の日は、私たちには知りえない。「私たちがすっかり忘れていた頃に、突然来るかもしれないから、常に目を覚まして準備しておきなさい」というこの話。ある人は「主人の帰りを待つ人、彼らは、腰に帯を締め、灯りをともしている。それは、競争の時、スタートの合図を前にしたあの息詰まるような瞬間である」と言うが、果たしてそうなのか。神が私たちに、そんな極度の緊張を強いているようには、私には思えない。

 確かに「腰に帯を締め」という言葉は、聖書の世界の人々にとって、それは裾をまくり上げることであり、たすきがけと同様、何事かを今から本格的にさあやるぞ、という意気込みを表すものでもあった。しかし一方で、神は「ともし火をともしていなさい」とも言う。ともし火は、当時簡単には手に入らなかった火種を常に手元に備えておく手段の一つでもあった。キリストがこの話を通して伝えようとした備えの姿とは、「今か今か」ではなく、もっとゆとりをもった姿勢だったのではないか。信仰生活とは、そんな何かに追われるようなものではないはずだ。

 キリストは「明日のことを思い悩むな」とも言われた。いつ来るか分からないものを今か今かと緊張しながら待つのではなく、その日が忘れていたころに突然来たとしても慌てることのないように、余裕をもって備えておいたらいい。それは、神から注がれている愛を今度は隣の誰かに注ぐこと。イエスから与えられた慰めや励ましを、今度は隣の誰かと分かち合うこと。私の罪が赦されている分、今度は隣の誰かを赦そうとすること。「おはようございます」と元気よく挨拶すること、「ありがとうございます」と感謝の気持ちをきちんと伝えること、「ごめんなさい」と素直に謝ること、「いいよ」って気持ちよく許すこと。そんなささやかな愛と平和の関わり合いを重ねながら、日々を隣人と一緒に歩んでいくなら、本来この御言葉はそれほど気にかけるほどのものではなくなるはずなのだ。

 災害、病気、死、愛する者との別れ、この世の終わり……私たちには、いつそれが来るのかは分からないし、それは私たちが忘れた頃にいつも突然やってくる。「まあ、まだ来ないだろう」では遅いのだ、きっと。この世の終わりがいつ来ても慌てないように、またいつ皆よりも先に神の御許に召されても悔いの残らないように、毎日を送っていきたい。

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