お知らせ内容
8月27日 メッセージより
2023年8月27日 メッセージ「みんな『小さい人』だった」より
牛田匡牧師
聖書 出エジプト記23章9-13節、ルカによる福音書14章1-6節
「働いてはいけない」とされていた安息日に、イエス様は目の前で困っている病人の必要を優先させ、反対者たちの目をはばからずに水腫患者を引き寄せ、抱きしめられました。安息日は元来「あなたの牛やろばは休みを得、女奴隷の子や寄留者は一息つくことができる」(出エジプト記23: 12)ためでした。そもそも古代イスラエル民族とは、古代エジプトでピラミッド建設などの過酷な重労働を強いられていた奴隷から、神によって導き出され解放された民のことです。「あなたたちもエジプトで寄留者(難民)だったのだから、社会的弱者の気持ちが分かるはず。だからそのような人たちを保護しなさい」。それが安息日規定の根本精神でした。にもかかわらず、その精神が見失われ、誤解されたまま人々に告げ知らされ、指導されていた現実がありました。
聖書の中に限らず、世界の歴史を振り返ってみても、無名で無力だった時には民を導くために一生懸命だったのに、次第に指導者としての地位も権力も得ていくに連れて、いつの間にか権力に固執し、誤った方向に政治を行ってしまう指導者の姿が見られます。それを人間の「性」や「業」と呼ぶのかもしれませんが、私はその根底にあるのは、恐怖心なのではないかと思っています。私たちは皆、赤ん坊として生まれて来たときには、裸で何も持たずに、自分の力だけでは生きられない無力な存在として生まれて来ます。そして生きている間には体も大きくなり、力も強くなり、出来ることも増え、様々なものを手に入れていきますが、やがて息を引き取り、神様の御許に帰る時には、また何も持たずに帰って行きます。何も持っていない時には、神様が一緒にいてくださるだけで安心だった。なのに多くのものを手に入れた今は、それらが失われてしまうことを恐れている。持っているものが失われると、神様から見放されたと感じてしまうのかもしれません。そのような恐れが、判断を鈍らせ道を誤らせてしまうのではないでしょうか。
聖書で何度も繰り返されている言葉の一つが、「恐れることはない」という言葉です。今、どんなに多くのものや力、地位を持っていても、みんな初めは無力な「小さい人」でした。だからこそ社会の中の「小さい人たち」を大切にすることが出来るはず。みんな「小さい人」だったけれども、こうして生かされて来たではありませんか。だからあなたも、あなたの隣にいる小さい人を大切にしてみてください。そしてあなた自身の中にいる小さい人も大切にしてみてください。恐怖心に捕らわれてしまわないように、神様が共にいてくださるということに信頼して、私たちは今日もここから歩みを進めて参ります。