お知らせ内容
9月10日 メッセージより
2023年9月10日メッセージ「手放したことで見えるもの」より
牛田匡牧師
聖書 ルカによる福音書 14章 25-35節
イエス様はご自分の周りに集まって来た人々に対して、「自分の家族も、財産も、捨て去る覚悟がなければ、私の弟子になることはできない」という厳しい言葉をかけられました。しかし、その一方で、漁師としての生業も舟も家族も、それらの全てを捨ててイエス様に従った弟子たちですら、イエス様からはいつも「信仰の薄い者たちよ」と言われていましたし、さらには胡麻粒よりも小さな辛子種一粒ほども信仰がないとすら言われていました(ルカ17:5-6)。では誰がイエス様のお眼鏡に適ったのでしょうか。それは例えば異邦人の百人隊長であったり(ルカ7:1-10)、異邦人の女性であったりしました(マタイ15:21-28)。当時のユダヤ人の常識では、異教徒である異邦人は神様の祝福の外にいる人たちだと見なされていましたので、異邦人が異邦人のままで評価されるというのは、考えられないことでしたが、イエス様は、弟子になったわけでもない異邦人たちを、異教徒のそのままで高く評価されました。言い換えれば、全てを捨てるとか捨てないとか、従うとか従わないとか、そのようななことで自他を価値判断しようとすることが無意味だということでしょう。イエス様が言われたのは、そのような価値観に対して見切りをつけよ、ということだったのだろうと思います。本当に大切なものを失ったら、それは「塩気を失った塩」のようなものではないかというのです。
では、その「本当に大切なもの」とは何でしょうか。それはイエス様がこの地上での歩みを通して示された「小さくされている人たちを大切にする」という感性ではないかと思います。しかし現代社会の中では「小さくされている人などいない」、始めから事故も問題も何も起こっていないかのように、事実を隠蔽しようとする暴力が、広く強く働いています。そしてその暴力は無意識のうちに私たち一人一人にまとわりついて来ています。今、私たちの身動きをとりにくくしているものは何でしょうか。責任とか、立場とか、役割とか、様々なものがあるかと思います。それらは自分自身の「塩気」を吸い取ってしまってはいないか。自身の塩気を失くしてしまうもの。それらに見切りをつけ、それらを脱ぎ捨て、もっと身軽に、自由になること。それらを「手放したことで見えるもの」があるのではないかと思います。イエス様について行く人に求められる福音の感性、自分の隣にいる「小さくされている相手」を大切にしようとする気持ち。その心をもって、私たちは今週も歩み出していきます。