お知らせ内容
10月1日 メッセージより
2023年10月1日メッセージ「渡れなくなる前に」より
水谷憲牧師
聖書 ルカによる福音書 16章 19-31節
毎日贅沢に遊び暮らす「ある金持ち」と、彼の家の門前で横たわるできものだらけの「ラザロ」。ラザロは、残飯ですら腹いっぱい食べられたらと夢見るほどの境遇だった。金持ちの家の門前に横たわり、存在をアピールするが、金持ちには無視されていた。野良犬の方がまだ優しかった。そんな2人は死んでから境遇が全く逆になる。金持ちは地獄で苦しめられ、ラザロは天国でもてなしを受ける。金持ちが地獄で灼熱の苦しみから救われないのは、彼が生きていた頃、自分の富を自分のためにしか使わなかった報い、他者に対して憐れみを示さなかった報いだったのかもしれない。「情けは人のためならず」なのだ。
天国のアブラハムは、地獄からこの世の家族を心配する金持ちに「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言う。さて、私たちはモーセや預言者の言葉を聴けているのだろうか。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)という言葉や、イエス・キリストの言葉「第一の掟『私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟は他にない」(マタイ22:37-39)など、私たちがこれらを本当に自分事として聴いていないなら、私たちはどんなに大事な仕事、偉大な働きをしていたとしても、世界に平和を作り出す者とはなれない。昔「友だちの友だちは皆友だちだ、世界に広げよう、友だちの輪」という言葉が流行った。みんなつながっているのだ。私たちが隣にいるラザロを愛することは、遠くの空の下の家族を愛することでもあり、私たちが遠くの空の下にいる人の命や思いを大事にしたければ、まず隣にいるラザロの命や気持ちを大切にしなければならない。
この話では、ラザロ(神は助ける)という名の人物に対し、金持ちは具体的な名前がない。この「ある金持ち」とは、私たちのことでもあるのではないか。私たちが現実に金持ちかどうかは関係ない。私たちが隣の誰かに対して関心を持ち、情けをかけているか、助けを必要としている誰かのことを無視していないか、その意味において私たちはこの話の「ある金持ち」と同じなのだ。この金持ちとラザロとの間には、越えるにはもう手遅れなほどの大きな溝が出来ていた。その淵を渡れなくなる前に、いま共に助け合い、支え合い、思いやり合って生きていきたい。