お知らせ内容
12月3日 第1アドヴェント礼拝メッセージより
2023年12月3日第1アドヴェント礼拝メッセージ「神の救いを見る時」より
牛田匡牧師
聖書 イザヤ書 52章1-10節
いよいよクリスマスを待ち望む「待降節」が始まりました。クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする時ですが、「キリスト(救い主・救世主)」と言われても、それらが一体何を意味しているかは分からないのではないでしょうか。日本語の「すくう」という言葉は、「金魚すくい」などでお馴染みの通り、水の中から物を「掬い上げる」のと同じなのだそうです。また「救い」と訳されているギリシャ語の元々の意味も、「安心」とか「安息」という意味だそうですから、「危機的な状況から助け出されて、安心してホッと一息つくことが出来た状態」というのが、「救い」という言葉の本来の意味なのだと思います。そして今、この世界の中で切実に「救い」を待ち望んでいるのは、パレスチナやウクライナの戦禍の中にいる人たちなのではないでしょうか。空から爆弾が降り注いでくるこの地上の地獄にあっての人々の切実な祈りは、「神様、どうか助けてください。この地獄から救い出してください。水と食料と横になれる場所、深呼吸できる時間を与えてください」というものなのではないかと想像します。
そのような祈りは、聖書に記されている古代の人々にも共通のものでした。戦争に敗れ、故郷から遠く離れた地に捕虜として連れて行かれた古代イスラエルの人々に向けて預言者イザヤの言葉は告げられました。「自分たちはもう故郷に戻ることが出来ない」と諦め、絶望し、自分で自身の首に縄目をかけてしまっていた人々に対して、そのような縄目を振りほどけ、と。また人々を無償で、奴隷から自由人へと買い戻し解放してくださる神は、絶望の時でも、いつでも、どこでも、必ず共にいてくださる神だ、と。そして必ず来る救いの時、解放の時に、人々は歓声をあげながら、故郷に帰って行く。その姿を見る人々は、神の救いを見るであろう、と。さて、この聖書の言葉は単なる昔話でしょうか。現代でも尚、人類は愚かな戦争を続けており、多くの命が奪われ続けています。目の前で人々が傷つけられ、命を奪われて行く地獄の中でも、本当に神様は共にいてくださるのか。その問いは、私たちにも問いかけられています。「神の救いを見る時」はいつか。もし、それが今であるなら、それはどこにどのようにして見ることができるのか。そのために私たちがなすべきこと何か……。クリスマスまでのあと3週間、世界の平和を求めつつ、クリスマスの意義を自分自身の中で静かに深めていくことができるようにと願っています。