お知らせ

お知らせ内容

12月10日第2アドヴェント礼拝メッセージより

2023/12/13(水)

2023年12月10日 第2アドヴェント礼拝メッセージ「どう読む聖書?」より

水谷憲牧師

聖書  ヨハネによる福音書 5章36-40節

 むかし私は、信仰を持つということは、聖書の言葉や出来事をそのまま無批判に受け入れ信じることと思っていた。聖書の話を素直に受け取ることができなかった私には、何のために聖書を読むのか、どう聖書を読んだらいいのか全く分かっていなかった。しかしある時、私の先輩が言った。「イエスの生き方はロックンロールだ」。イエスは、社会の底辺の人々と共に生き、彼らのために、彼らとともにこの不誠実な世の中を変えようとした。彼のその行いや教えが、社会の体制を維持していく側にとって目障りで危険なものであったために、イエスは反逆者という濡れ衣を着せられて捕らえられ、殺されたのだ。大事なのは、イエスが奇跡を起こしたかどうかではなく、イエスがどう生きたか、何と闘っていたのか、命を献げてまで、私たちに何を伝えようとしていたのかなのだと。

 福音書においても、キリストは御自分がなさった癒しの業について、誰にも話さないよう強く口止めをしておられる。奇跡ばかりに目を奪われると、キリストが私たちの間に降って来られた本当の意味が見えなくなるからだ。私たちは、例えばキリストが手のなえた人を真ん中に立たせたとか、子どもを抱き上げた、徴税人や罪人と共に食事をした、誰それに目を留め、声を掛けられた、などなど、挙げ始めるときりがないほどの、キリストの何気ない愛のしぐさにこそ目を向けていくべきであり、またキリストが様々な場面で語られた一つ一つの言葉にこそ、耳を傾けていくべきなのだ。キリストは「父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている(36)」と言う。奇跡物語のような人目を引く業だけを、神がキリストにお与えになったわけではない。それだけがキリストのなされた業ではない。日常におけるキリストの、何気ないものに見える一つ一つのしぐさやさりげない言葉こそが、神がキリストにお与えになった業なのだ。

 クリスマスを前にして、私たちは改めて聖書をどう読んだらいいのかというところから考え直したい。キリストをめぐる華々しい情景ではなく、ひっそりとした本当のクリスマスの情景からその意味、すなわち私たちに対する神からの隠されたメッセージを見出し、そのような中で生まれたキリスト・イエスの日常を見つめ、その姿に従っていくことによって、キリストの言われる「自分の内に父のお言葉をとどめ」る者とされたい。

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135

【郵便振替】00980-5-212130「日本基督教団久宝教会」

〒581-0072 大阪府八尾市久宝寺6丁目7-10

TEL:072-992-2131 FAX:072-992-2135